鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は、鎌倉時代の内実を教えてくれる貴重な資料ですが、暦史書というものは、中立的・客観的・無色透明な記録ではありません。少しでも正しい歴史(があるのかは疑問ですが)に近づきたければ、へんさん主体の立場や編纂時の時代状況などに注意を払う必要があります。

『吾妻鏡』の場合、源家よりも北条氏のために、記述方法や内容に工夫を凝らしています。そのための改編や脚色などが随所に見られます。加えて、編纂にあたって集められた記録・文書もんじょ・家の歴史などの資料の質の問題が厄介で、()(さん)な編集も見受けられます。ほかにも乗り越えなくてはならない問題が、たくさんあります。

なぜ、このようなつまらないことをくどくどと書き連ねたかと言いますと、『吾妻鏡』が記録する畠山重忠謀反と討伐の経緯には、釈然としない展開が多々あり、それが北条氏がらみのようだからなのです。

北条時政の欲望と陰謀に利用された感のある重忠討伐でした。『吾妻鏡』が北条氏寄りの作品なら、初代執権時政の暴走をどのようにまとめるのでしょう。

重忠を好意的に描くことによって、重忠を討つ時政を批判することになるとも言われています。その是非はわかりません。ただ、結果から逆算して重忠の行動が描かれ直されているとしたら、重忠の生を考える手だてを、ほかから見つけたいものです。

そこで、『吾妻鏡』以外から重忠の側面を、と思うものの、いざとなると、資料はあまりありません。それでも、鎌倉だけでなく、京の人々にとっても、重忠の最期がとても衝撃的であったことが伝わってきます。

()(かん)(しょう)』には、重忠が討たれ、自害して果てたことが記されています。卓越した能力を持った頼朝が天下を鎮め、平穏な日々をもたらしたのに、頼朝の死後、浅ましい騒動が続いたとし、その代表として重忠の死を記します。かつての平氏の滅亡のありさまと並べて、「人の()(わざ)とも思われない」と、厳しく非難しています。

また、慈円ほどには事情通でない京の人々にも衝撃が走ったことがわかる記事があります。前回も用いました『()(こん)(ちょ)(もん)(じゅう)』という説話集に載る話です。

常陸(ひたち)のくにのある上人が飼っていた猿が、上人が行なっている写経を成功させるために、懸命に助力をしたという話です。重忠の話とは全く無関係ですが、その最後にわざわざ、「これは畠山庄司次郎が討たれた年のことでした」と書き添えています。

猿の行動も不可思議ですが、猿が活躍した年を、重忠の討たれた年と記憶しているのも不思議です。“あの”重忠が、何故あのような最期を遂げなければならなかったのか、理不尽さに納得できなかったことが脳裏に刻まれていたのでしょうか。

重忠の人柄や行動についての知識、評判などが、京でも定着していたからこその一言でしょう。

しかし、時政の暴走と北条氏の分裂抗争は収まる気配がありません。これからの鎌倉を、そして北条氏をどのように導いていくのか、義時と政子は大きな分岐点に立たされています。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。