石橋山の合戦で頼朝が大敗したのは治承4(1180)年。四半世紀も前です。秩父平氏の雄、17歳の畠山重忠は平家方に加わり、三浦一族を打ち破りました。頼朝たちは命からがら安房に逃げましたが、鎌倉への道中で、瞬く間に大軍に膨れ上がりました。オセロゲームのように、平家方から次々と源氏方にくら替えしていったからです。

重忠も、父と(たもと)を分かって、軍勢を率いて頼朝側になびきました。一人でも多く取り込みたい頼朝にとって、大変心強い重忠の心変わりでした。しかし、いつまた心変わりされるかわかりません。信頼と警戒と、両面がついてまわったでしょう。

重忠の妻には安達遠元の娘がいますが、北条時政の娘とも結婚します。頼朝、そして北条氏との結びつきを強める婚姻によって、頼朝も信頼を深め、重忠も忠誠を尽くしました。

事態を冷静に分析して、現実的な判断をして行動する武士です。しかしそれだけではありません。『吾妻鏡』からは、筋を通す潔さや、(れん)(ちょく)な人柄が伝わってきます。中川大志さんが凛々(りり)しくてさわやかな重忠を生み出しましたね。都会的な洗練さえ感じさせます。

今回は重忠のエピソードを探しましょう。まずは、その怪力ぶりについてです。

『平家物語』では、源義仲を討ち取るために都に攻め込もうと宇治川を渡ったときに、後ろにしがみついてきた武士を「えいっ」と対岸に投げ上げた話があります。『源平盛衰記』という『平家物語』の一種には、一ノ谷の合戦のときに、(ひよどり)(ごえ)を、馬を背負って下りたという話もあります。ただ、どちらも事実とは思えません。

()(こん)(ちょ)(もん)(じゅう)』という説話集に載る話には信ぴょう性があります。強さ自慢の相撲取りが、重忠ぐらいなら相手になれるかと挑発し、対戦したところ、重忠は相手の両肩を抑えて少しも動かさず、尻餅をつかせて気絶させたというのです。相手の肩の骨を砕いたと。筋肉質でマッチョな体格だった?

(しゃ)石集(せきしゅう)』という説話集には、いつのことかはわかりませんが、重忠が「(ちん)(じゅ)()将軍を心にかけていた」とあります。鎮守府将軍とは、東北地方の反乱を退けるために任命される将軍のことで、平泉の藤原(ひで)(ひら)が任命されたことがあります。重忠の本拠地は武蔵国の北部です。北への関心が強かったのでしょうか。

そういえば、『吾妻鏡』には文治5(1189)年の奥州合戦のときの重忠の活躍が記されています。同時に、同じ秩父平氏の葛西清重との不穏な緊張関係もうかがえます。そして、合戦後、葛西氏は陸奥国(むつのくに)と関係を築いていきます。同族ゆえの反目が「鎮守府将軍」の背景にありそうです。鎌倉周辺とは別の人間関係と軋轢(あつれき)が、見え隠れします。

ところで、先に紹介した『沙石集』では続けて、そのような猛々しい武士の親族なら、賢くて、激しい修行も行い、実力も志も大きいだろうと記します。重忠の息子についての発言でしょう。しかし、重忠の武士としての評価が広く知られていたこと、一目置かれていたことも、間接的にではありますが、わかります。

 後々まで、重忠の人気は衰えません。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。