大変評判の悪い頼家です。将軍としての器量に大きな疑問符がつけられてしまいました。ただし、武人としての技量については評価されていたようです。

京都側の視線で記された『()(かん)(しょう)』では、畠山重忠の剛勇から頼朝の隙のなさに筆を及ぼし、続けて、長男の頼家が古今に並ぶ者のないほどの武芸の腕を持っていると、その評判を書き留めています。他の資料にも、特に弓矢に長けていたことが記されています。武人としての気概にあふれていたのですね。

個人の身体能力や武芸の技量と政治能力とは別物ではありますが、頼家にも魅力的な一面があったのです。生まれてくる時代を間違えたのかもしれません。

将軍の地位を追われ、社会から切り離されて、もがく頼家ですが、頼家の“血”まで忌み嫌われていったのでしょうか。頼家の“後”をのぞいてみたくなりました。

頼家には子どもが何人かいました。男児は皆出家し、鶴岡八幡宮や仁和寺に入って、十分に保護されて成長していきます。

ただ、その一人は、建保7(1219)年に叔父実朝を殺害することになるこう(ぎょう)です。弟たちも、この事件とは無関係ではいられませんでした。このようなことさえ起こさなければ、公暁は鶴岡八幡の別当として、鎌倉で厚遇され、頼家の血筋が絶やされることもなかったのかもしれません。

ところで、ご存じのように、実朝が殺害されて、源家の血は絶えてしまいました。実朝に子どもがいなかったからです。すると、次の将軍はどうなるのでしょう。

義時たちは朝廷と交渉を重ね、最終的に、京から、摂関家出身で当時2歳の()(とら)(後に(より)(つね))を招くことになりました。三寅の両親は、父母ともに頼朝の妹の孫にあたり、源氏の血筋はかすかに流れています。

そこに、新たな光が指します。それは、頼家の娘、竹御所の存在です。竹御所は建仁3(1203)年生まれ。頼家の死後、2歳の竹御所は政子にされて育ち、嘉禄元(1225)年に政子が亡くなった後は、後継として、幕府のさいや行事に深く関わっていったようです。

寛喜2(1230)年に、13歳の将軍頼経は28歳の竹御前と結婚しました。かなりの年の差ですが、京と鎌倉とをつなぐ、太いパイプとなりました。2人の間に男児が生まれたら、頼家の血は流れてはいますが、頼朝からつながる源家の血を引く将軍が復活します。

竹御所は父の人生をどのように受けとめ、父の生死に関わった身近な人々とどのような思いで年月を過ごしたのでしょう。それをうかがうことはできませんが、(おん)(しゅう)を超えて生きざるを得なかったことは、想像に難くありません。

貞永2(1233)年には父頼家の(つい)(ぜん)のために、()(らん)を造立することができました。頼家は歴史の闇に(ほうむ)られることなく、人々の記憶に刻まれたといえましょう。

竹御所はその翌年、死産の上、亡くなりました。姫君を一人残して。

頼家自身ではなしえませんでしたが、娘は鎌倉の発展に大きな力となりました。頼家の生が必ずしも無駄ではなかったと、一抹の救いをおぼえます。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。