東と西で並び立つはずであった2人。協調して日本を治めていくはずであった2人。しかし、その機会はなく、歴史は次の舞台に移ります。偶発する事件の連続が、歴史の必然に変わる瞬間が何度となく現われます。

後鳥羽は治承4(1180)年、頼家は寿永元(1182)年の誕生です。2歳しか違いません。2人とも幼いうちから将来が定められていましたが、内情は少し異なります。

頼家は頼朝の長男で、生まれながらに二代目が約束されていました。一方、後鳥羽は髙倉天皇の四男ですから、本来ならば天皇になるはずもありません。それが運命の悪戯(いたずら)で、4歳で即位しました。

4歳から天皇であれば、生まれながらの王と言えましょう。しかし、天皇としての正統性の証である三種の神器なくしての即位です。特に宝剣は失われたままです。この負い目は、常に後鳥羽を縛っていたようです。正しい王たらんという意識を持っていたと思われます。

当時の天皇には実質的な権限がなく、実際は父や祖父にあたる院(上皇、法皇)が統治していました。後鳥羽天皇にとっては祖父の後白河法皇です。ですから、建久3(1192)年の後白河崩御までは、出番はありません。

院政の主体が不在となり、およそ100年ぶりに天皇親政となりましたが、13歳の天皇には、まだ力がありません。後鳥羽を支えたのは関白・藤原(かね)(ざね)。兼実失脚後は内大臣・源(みち)(ちか)でした。

成長した後鳥羽は建久9(1198)年正月に皇太子に譲位します。19歳で上皇となり、院政を敷くことになりました。ようやく従来の形態に戻って、政治を動かすことができるようになったのです。

奇しくもこの年の12月に頼朝は病に倒れ、翌年正月に帰らぬ人となりました。後継者頼家は、頼朝が手さぐりで東国経営を始めた時期に成長していきました。幕府の制度が今まさに作られつつある時期です。

頼家がるべき組織は、まだ磐石とは言えません。しかも、頼朝は後継者育成に取り組む前に急逝しました。18歳の頼家は受け継ぐべきもの、こと、心を学ぶ時間もなく、東国の統治者の地位を継ぎました。

その点、伝統ある朝廷の制度のもとで成長し、それを基盤として対応していく後鳥羽の道のりとは、おのずと異なります。

どのように朝廷を存続させていくか、また、少しずつ失われていった朝廷や皇室の権益をどのようにして取り戻すか、不安定で流動してやまない鎌倉の動きを観察しながら、後鳥羽は方策を練ります。もちろん、敵対ではなく、共存共栄するために、兼ね合いを見定めながら。

ところが、通親が建仁2(1202)年10月に急逝し、宮廷内での立て直しが急がれていたやさき、建仁3(1203)年9月に頼家は鎌倉を去りました。頼家を継いだのは12歳の実朝です。

幼い実朝を支えるのは誰なのか。朝廷は誰と駆け引きをしていくのか……。後鳥羽は24歳。やはりまだ若い。京と鎌倉の綱引きは次の世代に引き継がれ、新しい様相を見せていきます。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。