草深い関東の(いち)(ぐう)の鎌倉ですが、鶴岡八幡宮を中心に、次第に道路や町並みが整備され、都会化されていきます。人々の生活も同様です。将軍家にも、次第に都会(京)の()(こう)が流れ込んできます。頼家がまりに夢中になったのも、その一つのあらわれでしょうか。

蹴鞠の相手役が、平(とも)(やす)という京下りの人物です。皆さんにはあまりなじみがないと思います。知康は、蹴鞠よりも、今様(いまよう)や鼓の名人として有名です。

ほくめん」という、後白河法皇を警護する役の1人で、法皇の側近でした。法皇は知康の今様を、「習い始めてそれほど経っていないのに、声がよく、恥ずかしがらずにうたうので、実際以上に上手に聞こえる」と褒めています。度胸と勘が備わっているようです。法皇に取り入るために今様を習い始めたのではないかとも疑われますが。

寿永2(1183)年、平家が都を落ちる寸前に、法皇は誰にも告げずに、ひそかに御所を抜け出しました。そのときに従った、たった2人のお供の1人が知康でした。お供は北面の仕事ではありますが、本当に側近く仕えていたのですね。

平家滅亡後には義経と行家に加担したために、頼朝から解任を要求されました。翌年、陳情のために関東に下向しますが、頼朝の怒りは解けませんでした。

建久3(1192)年、法皇が亡くなって、さて、どうなったのかと思ったら、『吾妻鏡』に、鎌倉で頼家に接近している記事があるではありませんか!

建仁2(1202)年のことです。蹴鞠の場に雨水が溜まっていたので、皆の前で、自分の直垂ひたたれと下着を脱いで水を吸い取ったとあります。あざといほどのパフォーマンスですね。以前、頼朝に嫌われたことを覚えていた政子は警戒しますが、知康は臆面もなく、頼家に取り入っています。

『平家物語』での知康の行動も印象的です。今様には触れられていませんが、鼓の名人であることが取り上げられています。

「鼓判官」というあだ名をめぐって、あるとき、関係が悪化し始めていた義仲に、そのあだ名は、人に打たれたのか、叩かれたのかと、面と向かってばかにされます。立腹した知康は法皇をたきつけて、義仲と合戦をすることになります。口の悪い義仲にもあきれますが、知康もかなり軽薄です。

法皇の御所で義仲軍の攻撃を迎えた知康は、築垣ついがきの上に登ります。挑発するつもりでしょうか、その風体はまったくもって異様でした。(よろい)は着けず、(かぶと)だけを被り、両手に(ほこ)と金剛れいを持って舞い始めました。

戦勝祈願の舞い? 狂気の沙汰(さた)? しかも、御所が炎上すると、誰よりも早く逃げ出してしまいました。誇張され、戯画(ぎが)化されているのでしょうが、実際の知康自身の、道化師的な振る舞いもいとわない行動が反映されています。

知康は己の持つ才覚(芸能)を最大限に活かして、京・鎌倉を問わず、自分を受け入れてくれそうな主人を嗅ぎ分けて、厚かましく近づき、自分を大げさにアピールして取り入り、世の中をわたっていきます。社会の荒波を泳ぎぬく、たくましいサバイバル術です。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。