頼朝よりともの死後、鎌倉に平穏な日はなかなか訪れません。跡を継いだ頼家の若さと経験不足ゆえと言ってしまえば、それに尽きるのかもしれません。また一方から見れば、北条氏が権力を掌握する道のりと言っていいのかもしれません。

かつて、頼朝のもとに結集して、共に活躍した武士が一人、また一人と姿を消していきます。陰惨いんさんな話が続きます。今回は少し違う角度から。

(しゃ)(せき)(しゅう)』という仏教説話集が、13世紀後半に誕生しました。作者は()(じゅう)という僧です。嘉禄2(1226)年生まれで、常陸ひたち国の寺に住持していましたが、やがて寺を離れて、奈良で学問に励み、後には尾張国にある寺に入って生涯を暮らしました。著作がいくつか知られています。

平安時代には、京の貴族階級を中心として高度な文化が花開きました。鎌倉時代になって、鎌倉にも拠点ができましたが、鎌倉から新しい文化を発信するまでには、多くの時間がかかります。そうは言っても、鎌倉時代も中期になると、京や鎌倉と無縁に生きた無住のような人が、地方で作品を書き残す時代がやってきます。

さて、前置きが長くなりました。無住は、「先祖が鎌倉の大将家に仕えて、(ちょう)(しん)であったが、運が尽きて夭亡(ようぼう)した。家を継ぐ者は絶えた」と、著作に記しています。この「先祖」とは梶原景時を指すようです。無住は梶原氏の血を引く家系のようです。

しかし、無住の著作に、梶原氏について触れるところは、ほとんどありません。その中で、『沙石集』には、ほんの少し記されています。

一つは、以前紹介しました、頼朝と景時の間で交わされた連歌です。他の東国武士にはない、連歌という趣味を共有できる2人の親密さが伝わってきました。次に紹介するのは、もう一つの、景時の妻の話です。

景時が討たれた後、妻の()(こう)は嘆き悲しみ、世間と人を恨みました。が、鎌倉の建仁寺の栄西えいさいに教化されて、熱心にぎょうを修めるようになりました。尼公は、夫の死後の苦しみをやわらげようと、建仁寺に塔を建てました。寺は4度も火事に見舞われましたが、塔は無事でした。これも尼の善行のたまものである、という話です。

栄西の教化の内容とは、頼朝の生前、景時は合戦の計画の相談に乗っていたので、結果的に多くの人を滅ぼすことになった。景時自身の行いの報いでもある。だから、夫を死に追いやった人を恨んではいけない、というものでした。

景時が生前、多くの命を奪った事実は直視していますが、必ずしも景時一人の意志からなされたものではないとし、その上で、供養と作善(さぜん)を心がければ救われるであろうと説いたのです。

尼は夫を失った嘆きから無常が身にしみ、だからこそ、恨みの気持ちがもたらす負の連鎖を断ち、供養に転換させることができました。そのおかげで、死後の景時の苦しみは救われました。

無住も、一族の先祖の冥福をそっと祈っていたのではないでしょうか。妻のみならず、景時のあずかり知らぬ子孫が気にかけていることを知ったら、景時もどれほどうれしいでしょう。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。