建久10(1199)年正月、よりともは逝去しました。鎌倉では追憶に浸るいとまもなく、次代を担う頼家を中心に新しい政治体制を整えていかなくてはなりません。しかし、その間隙かんげきを縫って、さまざまに渦巻く欲望が、不穏な動きを起こします。それは京でも同じです。

朝廷では、源(みち)(ちか)が、後鳥羽天皇の次の天皇に、自分の孫にあたる皇子を擁立して発言力を強めていました。その通親を襲う計画が2月に発覚し、首謀者3人が捕縛されました(三左衛門事件)。

次いで、“あの”文覚も捕らえられ、佐渡に流されました。ところが、通親が急逝して、建仁2(1202)年に都に戻ることができました。ところがところが、すぐに、今度は対馬に配流されることになり、その途上の鎮西で(かく)()したようです。

文覚は、破天荒な行動力をもって、後白河院や頼朝を庇護(ひご)者につけて、念願だった神護寺の再興を果たし、他の寺院の復興や興隆にも力を注ぎ、京・鎌倉で影響力を持ちました。今回の配流は、文覚がまとった権勢が(あだ)になったのでしょうか。

『平家物語』の文覚は、時代の節目に登場する不思議な存在です。以前にも紹介しましたように、伊豆に配流されていたときに、頼朝に父義朝の髑髏(どくろ)を見せて、挙兵を決意させました。後日、本物の髑髏を鎌倉に届けましたが。

そして、平家滅亡後、平家残党の捜索に躍起になっている北条時政がようやく捕らえた遺児、清盛直系の()(まご)にあたる六代御前の助命に奔走します。そのおかげで六代御前は助かり、文覚の弟子となり、出家しました。

ところで、文覚は後鳥羽天皇の統治能力に見切りをつけて、帝の兄を擁立しようとし、頼朝の死後、謀反を計画しますが、発覚して、佐渡でも対馬でもなく、隠岐に流されます。しかも恐ろしいことに、自分を流した後鳥羽を恨み、いつか隠岐に呼び寄せると誓います。

もちろん、承久の乱(1221年)で敗北した後鳥羽院が隠岐に流されたことを踏まえての創作です。文覚の弟子の六代御前は処刑され、平家の子孫は完全に絶え果てます。そこで物語の幕が閉じます。

平家滅亡のきっかけを作った文覚が、平家の遺児を助け、物語の(しゅう)(えん)と深く関わります。一方で朝廷の体制に異を唱え、未来まで予言します。このように、『平家物語』にとって、文覚は物語と時代を動かす重要な人物なのです。

実際の文覚流罪の衝撃は、物語とは異なった意味で大きかったでしょう。佐渡に流されたとき、文覚は61歳。若き日に荒々しい修行で鍛えた文覚でも、この年齢での遠い地への配流はこたえたでしょう。

誰もが再会を諦め、頼朝の時代が終わったことを痛切に感じたと思います。そして更なる対馬流罪。朝廷の紛争が飛び火した結果ではありますが、頼朝の急死が、頼朝ゆかりの、頼朝の権威をいただいていた人々の人生を狂わせたことは確かです。

文覚への過酷な処遇に接し、新しい時代に果たして平和が保たれるのか、京の人々の脳裏にも不安がよぎったのではないでしょうか。頼家の時代の多難を予感させます。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。