建久9(1198)年12月、頼朝よりともは病床にありました。そして翌年正月13日、静かに息を引き取りました。享年53歳。後白河法皇が66歳、清盛が64歳、九条兼実が59歳で亡くなったことを見ると、少し早くはありますが、特に早死にというわけでもありません。

建久7年から建久10年正月までの『吾妻鏡』が失われているので、頼朝の病状や死に臨むさま、周囲の対応、死の直後の仏事など、詳細は残念ながらわかりません。

ただ、死因は糖尿病であったようです。別の資料に、「飲水の重病」(多量の水を飲む病気)と書かれているからです。回復が望めず、死の直前の1月11日に出家をしたこともわかっています。

ところで、死の前年に、相模川の橋供養に参加して、その帰路に落馬したことが、『吾妻鏡』の後年の記事から知られます。この橋供養の帰路に、「水神」に取りつかれて発病し、半月後に亡くなったと記す作品があります。

それは、(じょう)(きゅう)の乱(1221年)の後、それほど時をおかずに成立した『承久記』です。頼朝の死の数十年後です。

また、それからさらに1世紀ほど経て成立した『(ほう)(りゃく)(かん)()』という歴史書でも、橋供養と頼朝の死を関連づけています。橋供養の帰路に、義広、義経、行家ら、源氏の亡霊が現われて、目を見合わせたと。霊と目を合わせると、取りつかれる危険があります。

義広は志田せんじょうよしのりとも。行家とともに頼朝の叔父で、頼朝に滅ぼされました。義経はご存じのとおりです。次に、海上に10歳ほどのどうが現われて、「ようやく見つけた、私は安徳天皇だ」と名乗って消えたと。

安徳天皇は平家一門を代表する立場でもあります。この後、頼朝は病気になって死んだ、「老死」ではなく、「平家の怨霊」のせいだ、「多くの人をほろぼしたため」だ、と記されています。

無惨な死が当たり前の時代でした。頼朝はそのような死に方は免れたものの、自らが生き残るために、また坂東武士の権益のために、多くの命を犠牲にしてきたことを、知らない者はいません。

頼朝自身も当然、自覚はありました。ですから、平泉の中尊寺を模して、鎌倉に永福寺を建て、文治5(1189)年12月には、奥州藤原氏と数万の()(りょう)を慰め、翌年7月には父・義朝の()(だい)()として建立した(しょう)(ちょう)寿(じゅ)(いん)で、滅亡した平氏の人々を供養するための(まん)(どう)()を催しました。東大寺の再建、高野山の大塔の鐘の(ちゅう)(ぞう)にも尽力しています。

頼朝は、敵味方を問わず、失われた多くの命の菩提を祈ってきました。にもかかわらず、頼朝の死因は怨霊と結びつけられて、まことしやかに語られていきました。いくら供養を重ねても、死者はなかなか浮かばれません。あまりに大きな犠牲が払われたことを、誰も忘れることができません。

勝者である頼朝も死後は苦の世界にいると、考えられたのではないでしょうか。勝利者に残るものは、深い後悔と悲しみ、そして死者に対するおびえだけであることを、人間はどうして学ぶことができないのでしょう。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。