強烈な(より)(とも)・義経兄弟に挟まれて、あまり目立たなかった範頼(のりより)。迫田孝也さんが穏やかに演じていました。もしかしたら本当にそんな感じの人だったのかもしれないと思うほどでした。

印象が薄くなった責任の一端は、『平家物語』にあるかもしれません。範頼は大手の大将軍、義経は搦手(からめて)の大将軍として、義仲を討つために大軍を率いて鎌倉を出発します。一ノ谷の合戦にも大手の大将軍として出陣しました。でも、義経ばかりが脚光を浴びていました。

その後、義経は都に残り、範頼は西海の平家を追って、瀬戸内海で戦います。『吾妻鏡』によれば、頼朝から急ぐ必要はないとはいわれていたようですが、苦戦が続きます。そうこうしているうちに、義経が屋島の合戦で華々しく活躍します。

ところで、皆さんよくご存じの『徒然草』は、実は、『平家物語』がどのように成立したのかを記した最初の資料でもあります。とはいっても、『平家物語』の成立後、半世紀以上経ってから書かれたものですから、その内容を無条件に信用するわけにはいきません。

『徒然草』には、『平家物語』の作者は「九郎判官(義経)のことはよく知っているから詳しく載せたが、(かばの)冠者(かじゃ)(範頼)のことはよく知らなかったからか、多く書き漏らした」と書かれています。

兼好法師は『平家物語』に親しんでいました。その『平家物語』の範頼について、義経と並べて言及しているのです。範頼の重要性を、兼好は認識していたようです。

範頼は、義経のように京に滞在することなく、戦場で指揮をとる役割が与えられていました。『平家物語』が作られたとき、情報源の多くは、京の知識階級の人々の周辺にありました。そこには、範頼についての情報が少なかったのでしょう。

範頼は義経の死後、腹違いではありますが、頼朝の弟として、鎌倉で重要な地位にありました。しかし、曽我兄弟の事件のとばっちりを受けて、失脚しました。

『平家物語』には範頼の死が記されています。しかし、8年さかのぼって、義経が頼朝に反旗を翻したときです。これは『平家物語』の脚色ですね。京の義経に向けた刺客が討たれ、次の追討使として、範頼に白羽の矢が立ちましたが、範頼は辞退します。

「九郎のまねはなさるなよ」という頼朝の言葉に恐れを抱いた範頼は、必死に(こと)(ごころ)無き旨を訴えましたが、とうとう討たれた、とあります。ここでも義経に続いて登場しています。そして、自分以外の源家の血を絶やしていく頼朝の冷酷な一面が、わざと、しかし何気なく書かれています。

さらに、ある種類の『平家物語』では、範頼は修禅寺に幽閉されます。梶原景時が、範頼と義経が結託しては一大事と進言し、頼朝が同意して範頼を攻め、範頼は寺の居室に火をかけて自害します。梶原は範頼の焼首(やけくび)を取って頼朝に見せ、頼朝は「神妙である」と応じます。いたたまれない、ぞっとする場面が加わっています。

自分の存在を脅かしかねない者を粛清していく頼朝の酷薄(こくはく)さと冷徹さを(きわ)()たせていく方向も、確実に存在したのです。範頼に合掌。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。