いつからか、後白河法皇のそばにいつも控えていた公卿、九条(藤原)(かね)(ざね)。といっても、あまり記憶にないかもしれません。ココリコの田中直樹さんが演じています、と言えば、お分かりになりますね。

兼実は、平安時代末期から中世初期の社会に触れる私たちにとって、なくてはならない人物です。兼実は真面目(まじめ)で几帳面で、そして、とんでもなく筆まめでした。内大臣となった16歳から晩年の55歳まで、ほぼ毎日のように、日々の記録を書き留めました。それがこの時代を知る第一級の資料(『(ぎょく)(よう)』)として残されています。

日々の記録、日記は、本来、貴族や天皇などが、家のため、子孫のために残すものでした。代々家を継いでいく貴族たちにとって、父・祖父・先祖の日々の行動は、即、今の自分のとるべき道を教えてくれます。

また、困難な事案にどのように対処するべきか、道標みちしるべは、先祖の記録の中にあります。その膨大な遺産を所持・管理し、利用していくことが、世を生き抜くすべでもありました。また、自分が残す記録は、子孫の生きる指標となります。

現代の私たちは、気軽に日々の出来事や思いを書き残すことができますが、それとは異なる、とても重い役割が、当時の日記には課せられていました。私生活にあまり立ち入っていないのは残念ですが。

もちろん、当時の貴族の皆が皆、筆まめだったわけではありませんし、代々引き継がれていくうちに、失われた日記も多くあります。ですから一層、『玉葉』の存在は貴重なのです。

兼実は、藤原氏の中でも最高峰の家柄である摂関家に生まれましたが、三男でした。果たして当主(氏長うじのちょうじゃ)となり、摂政・関白になれるかどうか、わかりません。しかし、政治の中枢を担うことになるであろう自覚と使命感は大いに持ち合わせていたと思われます。

18歳で右大臣になって以降、昇進は停滞していましたが、兄やおいが次第に亡くなったり失脚したりし、一方で頼朝と近しくなり、とうとう文治2(1186)年、38歳で摂政・()長者()になり、建久2(1191)年には関白となりました。

兼実は、後鳥羽天皇に娘を入内させることもできました。男児が生まれれば、次期天皇の外祖父として、権力を奮う機会も生まれます。これは、先祖の藤原道長に代表される、伝統的な摂関政治の在り方です。その復活も夢ではありません。すがる思いで娘の出産を待ちました。そうは言っても、なかなか思うようにいかないのが世の中です。

立場上、細かな最新情報を入手できましたし、自覚的にも集めて、細かに記録しています。いちばん重要な儀式の次第も、細かく書き残しています。しかし、理屈は長々と書くし、政治批判もよく見かけるし……。日記を見るかぎり、なかなか面倒臭い、けれど、筋を通す人のようです。

難題が次々と起き、常識や先例では測れない事件が続出した、先の見通せない時代です。時代の曲がり角に、摂関家の生き残りをかけて生きた兼実。時代を知る大きな手がかりを残してくれたことに、心より感謝申し上げる次第です! 

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。