いいくに作ろう鎌倉幕府……。懐かしい響きですね。1192(建久3)年によりともが征夷大将軍になり、鎌倉幕府が開かれた、と習った記憶は多くの人がお持ちではないかと思います。

だからと言って、開幕の儀式が行われたわけでもなく、「鎌倉幕府」という看板が取りつけられたわけでもありません。頼朝の征夷大将軍就任が、武家政権の始まりの象徴としてとらえられたのでしょう。

後白河法皇が亡くなって4か月後に、頼朝の申請を受け入れて朝廷が任命したことでもあり、生前の法皇の征夷大将軍へのこだわりも推測されていました。

「征夷」の「夷」とは、本来、遠方の異民族を指す言葉です。それを征圧するのが征夷大将軍で、反乱が起きたときに、臨時に与えられる職です。しかし、平泉に逃げた義経は既に亡く、平泉も滅び、もう「征夷」の対象となる人も地もありません。

ですから、この時期に任命するのもいささか不自然です。また、朝廷には、天皇を護衛する近衛府に左大将、右大将がいます。頼朝はこれより2年前に右近衛大将を拝命しましたが、すぐに辞退しています。

ところで、頼朝が要求したのは、「征夷大将軍」ではなく、「大将軍」というものだったことがわかりました。大将軍には、実際の合戦の場での総指揮官と、征夷大将軍などの、朝廷が命じる追討使の2種類があります。

いずれにしても、目前に迫った戦いはありません。が、朝廷では、いくつかの称号の候補をあげて選定し、候補の一つにあがっていた「征夷」を付した「大将軍」を与えました。しかし2年後、頼朝はこの職も辞退しています。

実は、頼朝は右大将を拝命する直前に、自分のことを、「朝の大将軍」だと発言しています。朝廷の組織の一員である近衛府の将軍とも別種の、新しい「大将軍」を意識していたようです。

頼朝にとって、征夷大将軍は象徴的意味合いも権威性も、それほどなかったようです。そこで、鎌倉幕府の開始を象徴するにふさわしい事件や、幕府の政治組織編成に画期となる年などを探すこととなり、「1192年」の影が薄らぎ、日本史の教科書から、あのフレーズが消えていったようです。

ちなみに、義仲は「征東大将軍」に任じられています。頼朝率いる関東の軍勢を攻めるのにふさわしい称号です。ただ、任命された10日後には討ち死にしてしまいましたが。

建久3年は、むしろ、後白河法皇の没年として記憶されることになるでしょうか。法皇は、とにもかくにも、平安末期の動乱を生き抜き、君臨し続けました。

三種の神器のうちの宝剣は失いましたが、新たに力をつけて急伸長してきた武士に、柔軟に(といえば聞こえはいいのですが)対処し、朝廷の支配下に組み込もうと腐心し、協調を試み(妥協と譲歩を重ね、といったほうがいいでしょうか)、朝廷の権益を何とか保とうとした“治天の君”です。

平和は取り戻しましたが、戦乱と抗争に明け暮れた人生でした。人々を翻弄した人物として記憶される法皇自身も、時代に翻弄された人物であったといえましょう。 

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。