「日本国に二人の将軍といはればや」、これは『平家物語』に書かれている、源義仲が挙兵を決意したときの言葉です。「日本で(より)(とも)とともに将軍と言われたいものよ」と、頼朝と並ぼうとしているようです。将軍になるのは俺だ! とは思わなかったのでしょうか。

以前にも紹介しましたが、義仲と頼朝は従兄弟(いとこ)です。頼朝の父・義朝と、義仲の父・(よし)(かた)が兄弟なのですが、不幸な関係でした。

少し時代をさかのぼります。義朝は父・(ため)(よし)と折り合いがよくありませんでした。義朝は関東で勢力を拡大し、北関東へと進出します。仁平3(1153)年春には下野守となりました。義朝の意を受けて関東で活動したのは長男の義平です。

一方、義賢は、父・為義の命令で上野国()()に下向し、仁平3年夏ごろには武蔵国比企(ひき)大蔵にも通っていました。大蔵は現在の埼玉県比企郡(らん)(ざん)町です。

武蔵国の秩父氏は義賢方と義朝方に分かれることになってしまいました。そして、久寿2(1155)年、義平は大蔵にいた義賢を襲います。

義仲はまだ2歳です。自力で逃げることはできません。母に抱かれて(牛若丸を思い出させますね)、あるいは斎藤(さね)(もり)に助けられてなど、いろいろな書き方がされていますが、義賢が北関東に勢力を広げていたおかげで、東山道を通って信濃国にたどりつくことができました。

そして木曽谷で中原(かね)(とお)に養育されました。兼遠は()()()であったとされています。義仲は、父の痛ましい最期を、兼遠から聞かされて育ったことでしょう。

嵐山町や木曽町と、その周辺には、義賢、義仲、兼遠、乳母子(めのとご)の今井兼平、(ともえ)(やま)(ぶき)に関わる伝承や旧跡が多く残されています。山吹は巴のように有名ではなく活躍もしていませんが、『平家物語』に、巴と共に名前が記される女性です。ぜひ、嵐山町や木曽町などに出かけてみませんか。

頼朝のあずかり知らぬ事件ではありますが、父を頼朝の兄に殺された義仲にとってみれば、頼朝に抱く感情は、穏やかならざるものがあったのではないでしょうか。

また、頼朝の挙兵は治承4(1180)年8月、義仲の挙兵は9月です。9月には、頼朝は房総半島から鎌倉に向かっていますが、将来の見通しはまだ立っていません。頼朝よりも自分こそが、と思うのが普通でしょう。

別系統の『平家物語』には冒頭の言葉はなく、「都に上って先祖の敵である平家を討って、世を取りたいものだ」と、野心をあらわにした言葉を吐いています。こちらのほうが、挙兵をもくろむ男の欲望を表した率直な言葉と受け取れます。

義仲の「二人の将軍」の望みは、歴史の結果から後づけで作り上げられたもののようですね。

義仲と頼朝は互いを意識し、けんせいしながら、鎌倉と木曽からそれぞれに京都を目指します。そして、遠からず迎える義仲の最期……。その短く悲劇的な人生を、青木崇高さんはどのように演じきるでしょう。

ちなみに、義仲の顔かたちが「清げ」で、「よき男」と書いている『平家物語』もあります。ただし、「立ち居振る舞いが無骨で言葉づかいも悪い田舎いなかびと」と続きますが。

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。