伊豆源頼朝の周辺に、怪しげな僧が時々出没していました。よりともの父・義朝のどくを持って頼朝に近づこうとした男です。後白河法皇にも招かれていました。覚えていらっしゃいますか。

市川猿之助さんが演じるもんがくという僧で、うさんくさげな雰囲気を十分に漂わせていました。『かんしょう』という鎌倉時代初期に書かれた書物には、「修行はたいそうよくしているが、学問はない。人をののしりしざまにけなし、てんまつるなどと人に非難されている」などと、さんざんに書かれています。

『平家物語』では、頼朝に挙兵を決意させた人物として、大々的に取り上げられています。懐から取り出した髑髏で頼朝の信用を得ようとしたり、1週間で伊豆と福原を往復していんぜんをいただいてきたり、とても現実とは思えない行動をとります。

しかし、あながち全てが虚構とは言い切れないところが、『平家物語』の創作の見事なところです。今回は、こうとうけいと思われる髑髏の話を中心に、文覚を紹介しましょう。

この話には元ネタがあります。元暦元(1184)年8月に、京の獄門に置かれていた義朝の首を文覚が受け取ることになったという話が、貴族の日記に書き留められています。

次いで、『吾妻鏡』によれば、後白河法皇が義朝の首を捜し出させて、文治元(1185)年8月に、文覚の弟子が首に掛けて鎌倉に届けています。そして9月に、建立中のしょうちょう寿じゅいんに運ばれ、埋葬されました。勝長寿院は義朝のだいを弔う寺院です。現在は跡地に碑が立っています。

『平家物語』の作者は、義朝の首の存在と文覚の関わりを知り、治承4(1180)年に文覚が頼朝に挙兵を勧める話題の中に盛り込んだと思われます。それだけではなく、もう一度、義朝の首を登場させます。文治元年に、文覚が義朝の首を鎌倉に届けるのです。

義朝がかつて召し使っていたこんがき男(藍染め職人)が、獄門に懸けられていた首をもらい受けて、京都の東山円覚寺に納めておきました。文覚がそのことを知り、自分の首に掛けて、紺搔男と共に頼朝に届け、首は勝長寿院で供養されたと展開します。

物語では文覚に運ばせることとし、かつて見せた髑髏は頼朝を奮起させるために使った偽物で、これこそが本物と説明し、つじつまを合わせています。

四半世紀も前の髑髏が発見されて、しかも誰なのかわかるというのも驚異ですが、義朝の首は、歴史上も文学の中でも、大きな役目を果たしていたのです。

文覚の伊豆流罪は、承安3(1173)年から治承2(1178)年までです。ですから文覚は、治承4年には、もう伊豆にいなかったと思われます。

ですが、流人の頼朝との間でさまざまな話を交わしていたようですし、頼朝の信頼もかちえて、彼の使者となって、京と鎌倉とを往復しています。法皇ともつながりがありました。京都では神護寺だけでなく、東寺も再興しており、なかなかのらつわんであったと思われます。

「鎌倉殿の13人」では、文覚の活躍がどのように組み込まれていくのでしょう。

(NHKウイークリーステラ 2022年4月8日号より)

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。