歴史上の人物の生没年は不明なことが多いのですが、清盛は珍しくわかっています。元永元(1118)年1月18日誕生、治承5(1181)年うるう2月4日没。特に生年月日が明らかな人物はそれほどいません。

清盛の誕生日は摂関を務めた、ある貴族の日記に書かれています。建暦元(1211)年、その貴族は息子が1月5日に生まれたことを喜び、1月生まれの人物は皆「最吉」であるとして、正月生まれの人物を列挙しました。清盛はその中の一人なのです。鎌倉時代の貴族から、清盛は「最吉」の一人として評価されています。

清盛を「悪行」の人として描いたのは『平家物語』です。確かに、清盛は非難されるべき大事件をいくつか起こしました。後白河法皇幽閉、福原遷都、南都炎上。1年余りの間に立て続けに起こしたこれらの事件については弁明の余地もありません。そして、清盛自身がその報いを受けたかのような、恐ろしい死に方をしました。

平家は反抗的な興福寺の僧兵を追討しようと奈良に派兵し、いくさの照明のために、民家に火をつけました。その火が瞬く間に燃え広がり、市中を火の海とし、大仏まで焼いてしまいました。

国家鎮護の大本山、東大寺の大仏が焼け落ちた! 仏教破滅、日本破滅といってもよい大惨事です。その2か月後、清盛は突然高熱にうなされ、のたうち回って苦しみながら亡くなりました。

これが物語の虚構ではなく、まさしく事実であることが、本当に驚きです。当時の人々のみならず私たちも、清盛は仏罰を受け、地獄のごうにさいなまれていると感じます。

『平家物語』にもその様がたっぷりと描かれ、因果応報、じょうしゃひっすいを目の当たりに見せます。更にその因果が清盛だけでなく、子孫にめぐり、平家は滅亡するのです。

ところが、『平家物語』は清盛の死の次に、不思議な話を続けます。清盛は普通とは異なる人物であったというのです。大社への参拝の壮麗さから始まります。信仰のあつさが示されます。

次は福原の和田岬の築港の話です。難工事であったために、人柱を立てることになりました。しかし、清盛は人柱などざいごうであるとして、代わりに多くの石にきょうもんを書かせ、沈めてせきにしました。

さらに、清盛は延暦寺中興の祖のそうじょうの生まれ変わりであるというのです。身をもって仏教のありがたさを知らせたのです。

そして極めつきは、実は忠盛の子ではなく、白河法皇のらくいんであると。天皇の血筋をひいているからこそ、帝王しかなしえない遷都を行えたというのです。先の2つは清盛の信仰心と合理性を示し、後の2つは、清盛の行動力を少しでも跡づけよう、説明しようとしています。

一筋縄ではいかない物語の展開です。善きにつけ悪あしきにつけ、当時の常識では計りしれない清盛の大胆な行動が、さまざまな話を引き寄せたのでしょうか。

さて、「鎌倉殿の13人」ではよりともと東国武士、そして後白河法皇が、清盛と平家という大きな壁を打ち壊していきます。清盛はどのような立ち位置で最期を迎えることになるのでしょう。

(NHKウイークリーステラ 2022年3月25日号より)

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。