慶長5(1600)年9月15日朝、家康軍(東軍)と石田三成ら反家康軍(西軍)がぶつかります。「天下分け目」の「関ヶ原の戦い」として著名な戦いです。ところが、実は関ヶ原の戦いも実態はよくわかっていません。場所や時間にも議論がありますが、早々に大勢が決し、合戦の時間はさほど長くなかったと考えられています。

この合戦に関しては、「毛利の空弁当(西軍の毛利秀元・吉川広家隊が弁当中と称して出撃しない)」「問鉄砲(徳川軍が西軍の小早川秀秋に裏切りを促すため鉄砲を放った)」など有名なエピソードがいくつもあります。

ただ、いずれも実際の出来事ではなかったようです。「天下分け目の戦い」ですので、のちの時代にいろいろな物語が作成されました。後世の物語の展開も含めて、現在いろいろなことが研究されている旬のテーマの1つです。ご注目ください。

18日、三成の佐和山城が落城。福島正則・井伊直政・本多忠勝らの交渉によって、西軍の大将・毛利輝元は大坂城から退去し、27日に家康が大坂城西の丸に入城。三成は捕らえられ、10月1日に処刑されました。これによってほぼ戦いは終結しました。全国各地の戦いもほどなく収まり、家康は大きな戦に勝利したのです。

合戦では井伊直政が、家康の4男で直政の娘婿、この時21歳で初陣となる忠吉(母は於愛の方)とともに、戦っていました。しかし、戦いの最終盤、戦場からの脱出を図った西軍の島津義弘勢を果敢に追撃し、鉄砲で腕を負傷してしまいました。

今回は、直政に注目したいと思います。

井伊家は、浜名湖の北側、遠江(とおとうみ)国井伊谷を本拠とする一族です。今川の家臣だった井伊家の苦難は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」でテーマの1つとされました。

家康に仕官した直政は、天正4(1576)年に初陣を遂げます。天正10(1582)年の甲斐・武田攻めでは、地元の武士に働きかけ、徳川方につかせるという任務を果たします。

本能寺の変後の北条との戦いでも、徳川代表として和睦交渉にあたりました。これは遠江の名門・井伊家の名が有効だったのだろうと指摘されています。もちろん、直政の交渉能力もありましょう。

同じ年、直政は旧武田家臣を多く配下とし、旗本精鋭部隊の隊長となります。この井伊隊は、天正12(1584)年の長久手の戦いで大活躍し、「赤鬼」と称されたといいます。以後、戦場での功績も多くあげました。

またこの頃、家康の養女と結婚しました。直政は家康の一門衆に近い立場として、対外的な交渉にあたりました。

天正14(1586)年、秀吉の口利きで家康が一気に昇進した折に(#35 豊臣秀吉との和睦「そなたは、わしの大事な妻じゃ」)、直政は(しゅ)(りの)(だい)()になります。さらに翌天正15(1587)年、家康の(ごん)(だい)()(ごん)任官と同時に「家康若衆」の直政は、じゅうに任じられました(『(いん)(ちゅう)()()殿(どの)(のうえ)(のにっ)()』)。他の家臣たちより早く高位の叙任です。

天正16(1588)年、()(よう)(ぜい)天皇が豊臣秀吉の邸宅に行幸する(じゅ)(らく)(ぎょう)(こう)が行われました。この時も家康の家臣の立場でありながら、諸大名とともに起請文に署名しています。摂関(せっかん)家・近衞(このえ)家や伝奏(てんそう)()(じゅう)()家など、京の公家たちとの交流も多く見られます。徳川の家臣の中でも、直政は少し異なる立ち位置でした。

家康の関東移封にあたっては、上野(こうずけ)(みの)()(現在の群馬県高崎市)で12万石を与えられました。これは家臣たちの中で最も高い()(ぎょう)(だか)で、東北地方に対する抑えの役割が期待されたものです。

関ヶ原の合戦前夜にも、終結後の和睦交渉・戦後処理でも、直政の豊臣諸将との交渉が重要な役割を果たしました。負傷を押して、この後あちこちを奔走したのです。

さて、直政は関ヶ原の戦いの功績によって、三成の遺領である近江佐和山(現在の滋賀県彦根市)で18万石を与えられました。今度は、京都・西国の抑えとして重要な位置を任されたことになります。のちに次男・直孝が彦根藩30万石の主となり、井伊家は大老の家として続きました。

まさに四天王と称されるにふさわしい活躍をした直政です。美男子だったとも伝えられています。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。