慶長5(1600)年6月、家康は会津の上杉景勝討伐のため出陣しました。「豊臣政権」からの上洛命令に従わないことを(とが)めたもので、この時は、豊臣軍としての出陣でした。

しかし、家康の不在の間に大坂では、反家康の動きが表面化しました。中心メンバーは、石田三成・大谷吉継、そして五大老の一人・毛利輝元です。第一報は、7月20日ごろまでには家康の耳に入ったようですが、家康は引き続き会津に向かいました。

7月17日、反家康派は大坂城の留守居を追い出し、当初は味方だった増田長盛ら三奉行も反家康派につきました。そして13か条からなる「内府違いの条々」、つまり内大臣・家康を非難する文書があちこちに送られました。

その内容は、誓紙に背いたこと、罪のない上杉を討とうとしていること、伏見城に自らの軍を入れたこと、北政所の住まいだった大坂城西の丸に入ったこと、などなどでした。これによって、家康が豊臣軍を指揮する正当性は失われてしまいました。

7月25日ごろ、家康は反転して畿内に戻ることを決めます。この時、いわゆる「小山評定」があったかどうかは、論争があるところです。

さて反家康軍は、7月19日に伏見城に攻めかかりました。ここには鳥居元忠たちが留守居をしていました。伏見城には鉄砲が打ちかけられ、その音は京にも響きわたりました。元忠たちは、小勢ながらよく反家康軍を食い止めます。しかし寄手には小早川秀秋・宇喜多秀家の大大名も加わり、4万の軍勢での攻撃に8月1日に落城。元忠も討死します。62歳でした。

音尾琢真さんの「彦」(彦右衛門元忠)は、ドラマでも最初から登場していました。父は、イッセー尾形さんが演じた重臣・忠吉です。

元忠は、家康より3歳年長で、家康が今川のもとで竹千代と呼ばれていた子ども時代からそばに仕えていました。家康が元服した時に、ともに元服し、初陣も一緒だったといいます。苦楽を共にした幼なじみです。

三方ヶ原の戦いや長篠合戦など多くの戦いに参加し、家康が関東に移った際には、下総国矢作(現在の千葉県香取市周辺)で4万石を与えられます。

今回の出陣にあたり、伏見城の留守を任され、いざという場合も覚悟していたことでしょう。

「彦」の戦死の報は、ただちに家康のもとに届きます。覚悟の上とはいえ悲しみは深かったと推測されます。しかし、三奉行まで反家康派についたことは意外だったのか、家康は、江戸からすぐには動きませんでした。あちこちに膨大な量の手紙を送り、自らの味方につくように働きかけます。

状況を伝えたり、軍功を称えたり、領地を与えると約束したり、人員や船の手配を命じたり、諸大名に訴えるとともに、その動向を見極めようとしています。

三成たちも、自分たちが秀頼を擁した豊臣政権代表であるとして、味方になるよう各所に訴えています。

つまりこの争いは、かつて織田信長が死去した後と同様、秀頼を主とする豊臣政権内部での権力闘争でした。「関ヶ原の合戦」と称されますが、戦場は関ヶ原だけではなく、全国に及んでいます。

最上義光・伊達政宗(家康方)vs.上杉景勝(反家康方)、前田利長(家康方)vs.丹羽長重ら、黒田如水じょすいら(家康方)vs.大友義統よしむねら、と各地で戦いが発生しました。それぞれに自らの勢力拡大の思惑も絡んでいたようです。

家康にとって大きな節目ですが、この時までにドラマ初期から登場した三河家臣団では、大久保忠世が文禄3(1594)年、石川数正が文禄2(1593)年、酒井忠次・服部半蔵正成が慶長元(1597)年に、茶屋四郎次郎清延きよのぶも亡くなっています。

家康周辺の世代交代が進んでいきますが、井伊直政・本多忠勝は先発し、若い秀忠のそばには榊原康政・本多正信が、秀康のそばには平岩親吉が付き添っていました。

先発した諸将の快進撃を受けて、9月1日、家康も江戸城を出発しました。どうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。