慶長4(1599)年9月、家康は豊臣秀頼に重陽の節句(9月9日)の挨拶をするため、として大坂に赴き、石田三成の屋敷を宿所としました。挨拶ののちも、いくつかの政治的案件に取り組んでいたようです。

そうした中、大坂は不穏な雰囲気に包まれました。家康に対する暗殺計画があり、その背後には五大老の一人、前田利長がいたことが発覚したのです。ただし近年では、暗殺計画は実際にはなく、利長を陥れる虚報とも考えられています。

事件の詳細ははっきりしませんが、9月21日付の島津義弘の手紙では、家康が利長に上洛しないよう命じ、もし軍事行動を起こすようなら国境で留めるように、と隣国の三成たちに命じた、と伝えています。五大老中でのぴりぴりとした対立です。

その後交渉が重ねられ、翌年、利長の母・まつが人質として江戸に赴くことで決着しました。2002年の大河ドラマ「利家とまつ」の主人公ですね。当時まつを演じていた松嶋菜々子さんは、今回は家康の母・於大の方を演じていらっしゃいます。

この事件に関連して、五奉行の浅野長政も失脚しました。秀吉の定めた重臣のうち利長・三成・長政の力が弱まり、家康の役割が強まっていきます。秀吉の妻・北政所(寧々)は大坂城西の丸を出て京に移り、替わって家康が西の丸に入り、政務をとるようになりました。

ところで暗殺事件に絡んで処罰された一人に、玉山鉄二さん演じる大野(はる)(なが)がいます。茶々の乳母・大蔵(おおくら)卿局(きょうのつぼね)の子になります。今回はこの母子に注目したいと思います。

母子の出身ははっきりしません。ある系図では、尾張国葉栗郡大野村(現在の愛知県一宮市)の出身であるとします。そうだとすれば、大蔵卿局は、お市が織田から浅井長政に輿入れする時に、つき従ってきたのかもしれません。30年ほどもお市と茶々のそば近くに仕え、苦労を共にしてきたことになります。

少し後ですが、京の公家たちが、茶々とその周辺に贈り物をするときにも、女房達の筆頭に挙げられ、贈られる物も他の女房より豪華でした。たとえば2番目・3番目の女房が布二端をもらっている時に、大蔵卿局は倍以上の五端送られています。茶々・秀頼のもとでの権勢のほどがわかります。

その子・治長と思しい人物の姿が見える早い事例に、「淀の大野」が任官したという天正17(1589)年7月の史料があります。同年5月末に、茶々は淀城で鶴松を出産しました。

鶴松の誕生に伴って、茶々の周辺の人物が取り立てられた、その一環と考えられます。治長は「大野(しゅ)()」と通称されますが、この時修理亮しゅりのすけに任じられたのでしょうか。

『太閤記』によれば、秀吉が亡くなった時には、形見分けとして、金子15枚をもらったといいます。片桐(かつ)(もと)(ドラマでは川島潤哉さん)、石田(まさ)(ずみ)(三成の兄)らと一緒に与えられており、治長もこうした人々と同様に秀吉の近くにも仕えていたと考えられます。

秀吉の死後は、石清水八幡宮若宮造営の奉行を勤めたり、大坂城の当番を勤めたり、具体的な活動が見られるようになってきます。

そうした中での今回の事件でした。治長は、家康の次男・結城秀康(於義伊おぎい)の所領下総国結城(現在の茨城県結城市)に流罪になりました。

この事件を報じた毛利家の家臣は、治長は茶々とのスキャンダルがあったので死罪となるところだった、と伝えています。真相は不明ですが、それほどに近くに仕えていたのでしょう。

今後も、茶々のそばで活躍すると予想されます。要注目です。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。