第40回の放送では、家康がいよいよ天下人となる覚悟を示していましたね。

秀吉が亡くなった時、後継者の秀頼はまだ6歳でした。秀吉は秀頼を大変心配し、病中、何度も主だった人々を集めて遺言をしていました。

ある時は、家康・秀忠・前田利家と五奉行が集められました。その中で、家康に対して「あなたは律儀な人物なので、近年懇意にしていた。秀頼を孫・千姫の婿にしたのだから、秀頼を盛り立ててほしい」と、かき口説きました。

秀忠にも「あなたは秀頼の(しゅうと)であり、家康も年老いてきているから、病気になったら、あなたが変わらず秀頼を補佐してほしい」と頼んでいます。

こうして秀忠の長女、まだ2歳の千姫は、秀頼と婚約しました。秀吉の近親は、弟・秀長をはじめ多く亡くなっていました。そのため妹の夫であり、秀頼の妻の祖父と定められた家康が、秀頼の後見として頼りにされたのです。官位・領地・経験の上でも、家康は他の重臣から抜きんでた存在でした。

さて、秀吉の死去は、朝鮮からの撤兵のため、しばらく秘密にされました。公表されたのは、翌年慶長4(1599)年正月です。

直後に家康に対して利家以下が詰問の使いを送っています。

家康が秀吉の決まりに背いて、勝手に婚姻関係を結んでいると非難したのです。家康は、6男・忠輝と伊達政宗の息女、養女(姪)と福島正則の嫡男、養女(実はひ孫。長男・信康の孫)と蜂須賀家政の嫡男など、有力な家々と婚約を取り交わしていました。こうした勝手な婚約は派閥の形成につながるので、禁止されていたのです。

家康は、同時期に「領地のことは、秀頼が成人して自らの判断で行うまでは、誰が訴えようとも一切仲介をしないように」という決まりに背く行動もしていました。

例えば、薩摩国(現在の鹿児島県)に有力大名・島津氏がいます。当主の義弘は朝鮮に出陣し、慶長3(1598)年12月に帰国しました。帰国前の11月、家康はその兄・義久を自邸に招いています。

その後、義久は懇意にしていた摂関家・近衛(このえ)(さき)(ひさ)を通じて、家康と(とく)(ぜん)(いん)(げん)()に働きかけ、領地と自分自身および重臣・伊集院(こう)(かん)の昇進の希望を伝えました(「近衞信尹書状土代」)。家康は石田三成の反対を押し切って、島津家に5万石を与えました。

これも違反です。さらに従来は、秀吉と島津家の間の仲介をしていたのは三成でしたので、そのラインに、家康が割って入ったことにもなります。慶長4(1599)年正月、義久は、家康との交際について、弟・義弘に弁明しています。3月、島津家の家中では庄内の乱がおき、この内紛にも家康が介入しました。

このように家康は婚姻や領地・官職の仲介などを通して、他の大名たちを取り込もうとしていたようです。

閏3月3日、重鎮の利家が亡くなると、事件が発生しました。正則以下が三成に詰め寄ったのです。朝鮮に出陣していた時の三成の秀吉への報告が原因の訴えだったようです。渡海した武将たちと、三成ら国内にいた官僚たちの対立が深まっていました。

この事件は、家康や毛利輝元、北政所が間に入って収まりました。三成は領地の佐和山城に隠居することになり、家康は秀吉の政庁・伏見城西の丸に入りました。

この時、奈良の僧は「家康が天下殿になられた。めでたい」と日記に書いています(ちなみに、この僧は秀吉が豊臣姓のお披露目をした時には「新王だ」と書いていました。政局に目配りした人物だったようですね。#34 関白豊臣秀吉の誕生「余は関白である」)。家康の存在感がますます大きくなっている様子が(うかが)われます。

急速にきな臭い雰囲気が立ち込めてきました。どうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。