慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉は死去しました。ムロツヨシさんの秀吉は、底知れぬ恐ろしさのある秀吉でしたね。茶々との2人目の子・秀頼はまだ6歳でした。

ところで実際の秀吉はどんな顔だったのでしょう。ドラマでもしばしば「猿」と呼ばれていたように、猿に似ていたイメージがあります。秀吉の生前あるいは死去から間もない時期の肖像画では、細面の少し頬のこけた顔で、落ちくぼんだ目がぎょろっとしています。確かに猿似といえなくもないかもしれません。

今回は秀吉の容姿について注目したいと思います。

秀吉の容姿に関する有名な史料に、毛利家の家臣・玉木(よし)(やす)が元和3(1617)年に記した自叙伝『()()(かがみ)』があります。

この中に織田信長の武将として鳥取攻めに赴く秀吉(40代半ば)を、姫路で見物した記事があります。そして「その時初めて秀吉をよく見た。その姿は軽やかに馬に乗り、赤ひげに猿のような目で、得意げな様子だった」と感想を書いています。馬の上の軽やかな小柄な姿も、赤茶の髭も目も、日本猿を思い起こさせます。

ところで同じように「背が低く、色黒で、出っ歯で猿のような目で赤ひげでいらっしゃる」と表現された有名人がいます。これはしょくほうに流行していた(こう)(わか)(まい)の「(おい)さがし」の一節です。
織豊期…織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時期

越後の(なお)江津(えつ)(現在の新潟県上越市)に山伏の一行が宿泊しました。そうしたところ宿の主に疑われ、このような人相の手配書が出ていると追及されました。丁々発止のやり取りの末、最後には武蔵(むさし)(ぼう)弁慶(べんけい)の活躍により、一行はめでたく出航していきます。

この指名手配犯、実は昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で菅田将暉さんが演じた源義経です。兄・頼朝に追われて東北に逃げていく途中の場面になります。義経といいますと、美少年・牛若丸と思いますが、この頃はこんなイメージもあったのですね。

吉保が秀吉について書こうとした時に、ふとこの有名な幸若舞の一節が浮かんだのではないでしょうか(吉保は()(さる)(がく)をたしなんでいたようです)。意外にも秀吉と義経のイメージが近かったのかもしれません。

それは、小柄で(びん)(しょう)な容姿からのイメージ、あるいは苦労して身を立て、得意の絶頂から没落していく流れも重ね合わせたのでしょうか。

猿眼や赤ひげは超人的なイメージの表現という説もありますが、『平家物語』長門本や江戸時代の浮世草子・狂歌では、さえない人物の表現に、この形容が出てきます。やはり、あまりプラスの評価ではないと思われます。

秀吉=猿としては、天正19(1591)年の「末世とは別にあらじ木の下のさる関白を見るにつけても(末の世とは他でもない今だろう。木の下のさる関白を見るにつけても)」という(らく)(しゅ)も有名です。

しかしこれも「さる(あの)関白」と「木の下の猿」をかけたものと思われます。卑しめてはいますが、容姿のイメージ、あるいは秀吉のあだ名として猿があったかはわかりません。

そのほかの同時代の人々の証言はどうでしょうか。「(秀吉のセリフとして)自分は醜い顔をしており、体格も貧弱だ」(宣教師の報告)、また「眼の光は輝いていた」「眼はネズミのようだった」「小男で醜く、色黒。目が鋭く人を射るようであった」(秀吉に対面した朝鮮使節たち)、「犬のような顔で年より老けて見えた」(倭寇に捕えられた中国人)などの証言が知られています。

織田信長が秀吉を「禿(はげ)ネズミ」と呼んだ手紙も有名ですね。

なんだか散々ないわれようですが、印象的な目だったのでしょう。猿に似ていたかはわかりませんが、秀吉と猿で有名な日吉権現を結び付ける伝承は、江戸時代中期になって登場すると指摘されています。

家康の眼には、秀吉の姿はどう映っていたのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。