鶴松の死から半年ほど後の天正19(1591)年12月、傷心の豊臣秀吉は、関白を甥・秀次に譲りました。以後、秀吉は「太閤(前の関白)」と呼ばれます。翌天正20(1592)年末には、気分一新、文禄と年号が改められました。
秀吉はこれ以前から明(中国)・朝鮮への出兵を匂わせていましたが、鶴松の死後、本格的に準備が進められました。秀吉の命により、諸大名は軍勢を率いて肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に集まりました。
まず天正20(1592)年4月、小西行長・加藤清正をはじめ九州の大名たちが渡海していきました。家康も4月に名護屋に到着します。渡海はせず、後詰として在陣しました。
当初、優勢に進軍していた秀吉軍ですが、7月ごろから戦況は悪化していきます。
ところでドラマでは、家康たちが物売りのまねをして、踊っていましたね。
『太閤記』という江戸時代の秀吉の伝記には、秀吉が名護屋で退屈しのぎに瓜畠や店を作らせ、仮装大会をした、というエピソードがあります。秀吉は瓜を売り、前田利家は高野聖のまねをし、蒲生氏郷は茶売りのまねを、とみなみな仮装して面白おかしく演じました。
家康はあじか売りに扮しました。あじかとは、(鯵ではなく)竹かごのことです。たくさんの竹かごを背負って、ゆったりと「あじかを買いなされ買いなされ」と呼ばわりました。その様子は、実際のあじか売りによく似ていたといいます。
実は、家康は今川義元のもとにいた幼いころから能・狂言に親しんでいました。今川には、越智観世座の観世十郎大夫が滞在しており、その手ほどきを受けたといいますから、本格的なものです。
このあじか売りと同じ文禄2(1593)年には、宮中で秀吉と前田利家と3人で狂言を演じています。狂言は、コミカルな動きや物まねをしながら演じられる芸能です。きっと家康のあじか売りは、狂言の素養を踏まえた堂に入ったものだったと思われます。
朝鮮半島での苦戦、兵糧不足が問題となる一方で、名護屋ではこうした余興がたびたび行われていました。
また名護屋には、茶々も同行していました。出陣に女性を伴うのは珍しいようですが、これは以前、小田原攻めに茶々が同行したところ、秀吉の思い通りになった、だから今度もそのめでたい例にならうのだ、という触れ込みでした。鶴松の死去の悲しみに沈んでいた茶々を慰めよう、という秀吉の気遣いもあったのかもしれません。
ある大名の家臣は、名護屋の茶々を「淀の御台様」と書いています。「御台」は貴人の妻に対する敬称ですので、この時期、正式な妻の一人として扱われていたようです。
そして茶々は2人目の子を授かります。文禄2(1593)年5月22日、名護屋の秀吉は寧々に手紙を出しています。
本文で戦況について記したのち、追伸として「(大坂に帰った)茶々の懐妊の様子を聞いた。自分は子どもを欲しくない。秀吉の子は鶴松だったが、他所にいってしまった(亡くなった)。今度の子は、茶々だけの子ということでよいのではないか」と書かれています。鶴松以外の子どもはいらない、自分は知らないと、一見そっけなく見えます。
一方で、7月か8月には必ず帰る、とも書かれています。出産は、7月と予想されていました。誕生の頃には大坂に帰るぞ、という強い意志が見えますね。気のないふりをしつつも、実はとてもとても心待ちにしていたのでしょう。
そして茶々は8月3日に無事に出産します。また政局が動きそうです。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。