天正17(1589)年5月27日深夜、秀吉と茶々の男の子が誕生しました。みな注目しており、男子誕生の報はただちにあちこちに届きました。()(よう)(ぜい)天皇もすぐにお祝いを遣わしています。6月3日、再び淀城に天皇の使いが遣わされました。秀吉は上機嫌で、使いに赤ちゃんを見せています。

秀吉には、これ以前にも男の子がいたという説もありますが、実子に恵まれませんでした。そのため、かつては織田信長の子・秀勝を養子にしていましたが、天正13(1585)年に18歳の若さで亡くなりました。

その後、天皇の弟・六宮(ろくのみや)を後継者としていました。鶴松誕生から半年後、早くも六宮の扱いが問題となりました。六宮は皇族に戻り、元服して八条宮(はちじょうのみや)(とも)(ひと)親王(しんのう)となります。

秀吉は摂関家・九条(かね)(たか)の娘を寧々の養女として、親王に嫁がせました。後継者からは外しましたが、その後もこの親王に気をつかっていたようです。親王は、有名な(かつら)()(きゅう)を造営したり、和歌や連歌に勝れた文化人として活躍しました。

秀吉は、53歳にして生まれた鶴松をとてもかわいがり、後継者として大きな期待を寄せていました。ところが鶴松は、天正19(1591)年5月に数え年3歳の幼さで亡くなってしまいます。秀吉の悲しみは一通りではありません。翌日には(もとどり)を切って喪に服しました。

現代でも力士が引退される時に、髻を切る断髪式が行われますが、髻は当時の成人男性にとって重要なものでした。それを切るほどの悲しみだったのです。家康たち諸大名もともに断髪しました。

一方、家康の子どもたちは成長し、それぞれに活動しています。

次女・おふうの夫・北条(うじ)(なお)は、天正18(1590)年7月に秀吉に降伏しました。父・(うじ)(まさ)は切腹します。氏直は助命され、高野山に入りました。家康の口利きもあり、翌年には(ゆる)されますが、同年死去しました。おふうとの間には、2人の姫がいました。

お万との間の次男・()()()は、天正12(1584)年に秀吉の許に養子として赴いていました。その後秀吉から「秀」の一字を貰い秀康と名乗り、初陣を遂げています。秀康は、鶴松の誕生と前後して、北関東の名門・(ゆう)()氏の姫と結婚し、結城氏を継承することになりました。

また於愛との間の三男・(ちょう)(まる)は、数え年12歳になった天正18(1590)年正月に、秀吉の養女(織田(のぶ)(かつ)の娘)の()(ひめ)との祝言のために上洛し、初めて秀吉に対面しました。

実は、秀吉の妹で家康の妻・旭は、秀忠の上洛の翌日、京でひっそりと亡くなっています。その死は、秀忠の上洛・祝言の妨げにならないように、しばらく秘密にされました。ドラマでも、山田真歩さん演じる旭は方々に気を遣っていましたが、政治に翻弄された半生でした。長丸の婚約は、改めて秀吉と家康の縁をつなぐ役割、小田原攻めの準備の一環でした。 

北条攻めの後に再び上洛した長丸は、元服して秀忠と名乗り、侍従に任じられました。やはり秀吉から「秀」を貰っています。秀康・秀忠の婚姻・元服には、どちらも秀吉が関わって配慮しています。

その前12月29日に、天皇のもとに挨拶に参上しました。この時、11歳の(おく)(だいら)(かめ)千代(ちよ)(まる)が、長丸の家臣としてお供し、自らの任官のお礼をしているのも注目されます。亀千代丸は、長篠合戦ののち奥平信昌に嫁いだ家康の長女・亀姫の子、つまり家康の孫です。子と孫が立派に天皇・上皇に任官の挨拶を遂げ、成人しました。

頼もしく育ってきた、と家康は感じていたのではないでしょうか。家康には、ほかに三女・(ふり)(ひめ)、五男・(まん)()()が誕生しています。

子どもは授かりものですが、権力者の子どもへの想いは、しばしば政治情勢にも直結していきます。愛する鶴松を失った秀吉は今後どうするのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。