第36回のドラマでは、家康の側室・於愛の方が亡くなりました。「どうする家康」では、広瀬アリスさんが、悲しみを内に隠して、明るく家康を支える於愛を演じておられましたね。

於愛の出身や経歴はいろいろな説があり、はっきりしません。家康の側室となる前に、結婚し子どももいたけれども、夫は戦死したという伝承もあります。西(さい)(ごう)(のつぼね)と呼ばれていますので、三河の名族西郷氏の関係者として仕えていたと推測されます。

(ちょう)(まる)が誕生した年を考えますと、於愛は遅くとも天正6(1578)年前半には側室になっていたのでしょう。亡くなった時に数え年28歳あるいは30歳だったと伝えられていますので、逆算しますと、側室になった時は10代後半だったようです。

天正7(1579)年4月7日に家康の三男・長丸(のちの秀忠)を、続けて翌年9月8日に四男・福松(のちの(ただ)(よし))が産まれました。瀬名と信康の事件(1579年)があって、家康の心労も多かったころですね。

天正11(1583)年の正月、数え年5歳になった長丸は、父・家康とともに家臣たちから新年のあいさつを受けたといいます。

お万との間の次男・()()()は、生まれた時には正式には認められていない、やや微妙な立場にありました。そのため、この頃には長丸が家康の跡継ぎと目されていたと考えられます。 

2人の子がすくすく育つ中で、天正17(1589)年5月19日、於愛は若くして亡くなりました。於愛の死去について、家康の家臣・松平(いえ)(ただ)が日記に書いています。それによると、深溝(ふこうず)(現在の愛知県幸田町)にいた家忠のもとに21日、「駿河若君様(長丸)のお袋西郷殿」が亡くなったとの連絡が届きました。

家忠は急遽、駿府(現在の静岡県静岡市)に赴き、24日に龍泉寺で行われた初七日の法要に参加しました。また家忠は香典として200(ひき)(現代の20万円ほど?)を進上しています。知らせを聞いた家忠がただちに駆けつけていることからも、於愛が家中で慕われ、大事にされていた様子が垣間見えます。

駿(すん)(こく)(ざっ)()』(19世紀編纂の地誌)の龍泉寺の項目には、於愛は目が悪く、そのため盲目の人々を手厚く保護したと書かれています。ドラマで於愛が「(ちか)()(近眼)」とされているのは、この伝承を踏まえたものと思われます。

ちなみに於愛の葬られた龍泉寺は、のちに宝台院と名を改めます。江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は大政奉還ののち、この寺で謹慎しました。江戸幕府の成立、そして終焉に縁の深いお寺といえます。

於愛が亡くなった時、家康は駿府には不在でしたが、死去の知らせにさぞ悲しんだことでしょう。家康はこの時、豊臣秀吉と小田原北条氏との交渉について相談するため上洛していたのです。

そして家康と北条との間をつなぐ役割を果たしていたのが、次女・おふうです。本能寺の変の後、家康は甲斐・信濃などかつての武田の支配地に目を向けていました。そして同様に武田の支配地を狙った北条と対立しますが、やがて和睦しました。

和睦の証として、天正11(1583)年8月におふうは北条氏政の後継者、当時21歳の氏直に嫁ぎました。氏直は、今川氏真室の糸にとっては甥になります。氏真が北条に滞在していた時には、氏真の養子として今川の継承者となっていたこともある人物でした。

関東の雄・北条をいかにして従わせるか。これが次の課題でした。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。