天正14(1586)年10月14日、家康は浜松城(現在の静岡県浜松市)を出発しました。13日に大坂を出た秀吉の母の大政所と入れ替わりに、秀吉の大坂城を目指したのです。
この時、奈良では家康が6万騎ほどの大軍勢で来たとの噂が立っていたようで、家康の存在感の大きさがうかがわれます。26日、家康一行3千人は大坂に到着し、27日に大坂城で秀吉に対面、臣下としての礼をとりました。
対面の前夜、宿所(秀吉の弟・秀長の屋敷)に、秀吉が訪ねてきました。そして待ちかねたと、家康の手を取り奥の座敷に案内して、親しく心の内を語り、酒を酌み交わしたといいます。
このエピソードは、家康の家臣・松平家忠の日記に書かれています。家忠自身は、上洛のお供はしていませんが、早くも30日には国許にこのような連絡があったようです。上洛には不安もあったでしょうが、秀吉が家康に好意的だと、家臣たちもほっとしたと思われます。
さらに27日の大坂城での対面の様子、贈答品のリストも伝わってきました。秀吉からの下賜品のリストの最後に「唐の羽織」があります。おそらく、どっしりした唐織の色鮮やかで豪華な羽織です。
この羽織は、秀長らのアドバイスで、家康が、自分が来たからには二度と殿下(秀吉)に陣羽織は着せません、と秀吉に求めたとの伝承があります。芝居がかったやりとりのようにも感じますが、内外に家康の臣従を知らせるパフォーマンスとなったことでしょう。
11月5日、家康は秀吉に連れられ、織田信雄、秀長、羽柴秀次(秀吉の甥)とともに参内し、秀吉の部下として正親町天皇に挨拶をしました。そして正三位権中納言に昇進します。
なお、かつて源氏での任官を望みながら「藤原」家康として任官した家康ですが(#12 徳川三河守家康に「源氏の末流じゃ!」)、この年か翌年頃に念願の「源」家康が認められたようです。秀吉の口利きとも推測されます。
またこの大坂城での秀吉への挨拶、天皇への挨拶、官位昇進、という流れは、以後新たに秀吉に従う大名が、臣下となったことを示す儀礼となったといわれています。秀長も家康と同日に正三位権中納言になりました。
その翌々日7日、正親町天皇が譲位し、孫の和仁親王が後陽成天皇となります。戦国時代の朝廷では費用の不足から、譲位をしたいとの望みが叶えられない状況が続いていました。およそ122年ぶりの譲位は華やかに厳かに行われました。
秀吉はこの譲位・即位を全面的にバックアップし、朝廷官職の最上位・太政大臣に昇進しました。
家康も譲位の儀式に参加しました。また、参加者の序列では、同日に昇進した秀長より上位に位置づけられました。豊臣政権内で家康がナンバー2の扱いとされたことになります。
譲位の翌日、家康は帰路につきました。11月11日に岡崎城に到着すると、大政所は大坂に帰っていきました。家康が上方に赴いていたひと月ほどの慌ただしい滞在でした。
家康の上洛は、織田信長が足利義昭を将軍とした直後の永禄13(1570)年、天正10(1583)年の本能寺の変の直前、そして今回が3度目でした。わずか4年の間に、大坂には巨大な大坂城が築かれ、京では譲位の儀式があり、秀吉の邸宅・聚楽の建設が進められています。
急速に変化している大坂・京の様子を目の当たりにして、家康は秀吉の天下となりつつある状況を感じたのではないでしょうか。帰国した家康は、本拠を浜松城から駿府城(現在の静岡県静岡市)に移します。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。