家康と豊臣秀吉の間の息詰まる交渉は続いています。秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄・家康に味方していた諸国の勢力を屈服させていきます。
家康としては、外堀が埋められていく気持ちでしょうか。次男・於義伊を養子の名目で大坂に行かせましたが、秀吉はさらに人質を出すことを求め、これを家康は拒否しています。
交渉が難航していた天正13(1585)年11月、岡崎城代・石川数正が秀吉のもとに去りました。数正は家康と秀吉の間で交渉役を務め、融和を図ってきましたが、まとまらなかった結果のようです。信頼してきた重臣・数正の出奔に、家康は大きな衝撃を受けました。
一時は再度の戦争になりそうな情勢になります。しかし同11月末、大地震が発生し、各地に大きな被害が出たこともあり、再び交渉が続けられました。かくして天正14(1586)年正月に信雄の仲介で和睦が整います。
家康は、秀吉の妹の旭と結婚することになりました。旭はこの時、44歳だったといわれます。それまでの人生ははっきりとしませんが、結婚経験もあったようです。
旭は5月半ばに浜松の家康のもとに到着します。多くの輿を連ね、持参した金銀、嫁入り道具は数知れぬほど、という華やかな大行列でした。しかし、2人とも心浮き立つ結婚というわけではなかったでしょう。政略結婚、実質的には人質です。
さらに秀吉の母・大政所が、娘に対面するため、として岡崎に来ることになりました。大政所も実際は人質です。なぜ優位にある秀吉側が人質を出すのでしょうか。
実は、負けた側の安全を保障するために勝った側が人質を出すことがありました。この場合も、家康の上洛の安全を保障するためと考えられます。とはいえ、妹、さらに母も派遣してきたのは破格の待遇です。
結婚と同時期に秀吉は、家康を昇進させました。家康は永禄12(1569)年以来、従五位下左京大夫でしたが、この時一気に従三位の参議、左中将に昇進し、公卿と呼ばれる最上位の公家の一員となりました。
実は一気に昇進したために、その間の段階の官位の辞令をまとめて8通も作成し、その昇進の日付はさかのぼって過去の日付としています。こうした昇進年月の操作は、新たな武将たちが急速に昇進したこの時期、しばしば行われました。
秀吉自身、小牧・長久手の戦いの最中、天正12(1584)年10月に無官から一気に従五位下左少将の官位を得ます(これ以前に呼ばれていた筑前守は、正式の官ではなく通称です)。
12月には従三位権大納言になり、敵の大将・信雄(当時は従五位下左中将)の官位をこえていきます。これは朝廷の権威を利用して、自らを信雄たちの上位と位置づけたものと考えられます。さらに翌13(1585)年3月には従二位内大臣、7月には関白と、たいへんなスピード出世です。
信雄が秀吉に従いますと、信雄を従三位権大納言という高官(ただし秀吉より下)につけました。秀吉はこのように朝廷官位を利用して自らの配下の大名たちのランク付け、編成を行っています。秀吉の政治の巧みさが窺われます。
秀吉としては、家康に対しても、官位の上昇によって喜ばせ、関白の妹の夫としてふさわしい箔をつけるとともに、関白である自らの下に位置付けるとの意図があったと推測されます。
そういえば、ドラマで旭はおみやげの南蛮菓子を振る舞っていました。一方、静岡といえば、みかんが有名ですね。当時も名産だったようで、家康は後陽成天皇・正親町上皇に「駿河蜜柑」を献上しています。きっと旭も、みかんや土地のおいしいものを味わって、両陣営の間に立つ心労を休めたことでしょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。