家康・織田信雄軍は長久手の戦いには勝利しましたが、全体には押されていきました。長久手の戦いから約半年後の天正12(1584)年11月、本国伊勢を攻められた織田(のぶ)(かつ)は羽柴秀吉に降伏しました。家康も、織田当主を支えるという戦いの大義名分を失い、秀吉と和睦することになりました。

秀吉は、尾張出身とされていますが、出自ははっきりしていません。しかしこの関白任官時に、祖父母は公家で、祖父・(はぎ)(ちゅう)()(ごん)(ざん)(げん)により尾張に流された、母・仲は若い頃に禁中で宮仕えをしており、その時に授かった子が秀吉である、という物語を作らせ、自らは実は高貴な生れなのだとアピールしています。秀吉がお伽衆の大村(ゆう)()に書かせた「関白任官記」です。

秀吉は、同じころ由己に「(これ)(とう)退(たい)()()(明智光秀)」「柴田退治記(柴田勝家)」などの記録も書かせました。例えば「惟任退治記」では、光秀の追討から清須会議、信長の葬礼までの秀吉の功績が美辞麗句を並べた文章で記されています。

そして秀吉が、信長の推挙を受けてご恩を受けたことは比類なく、あまつさえ信長の五男・御次を養子に下された、自分は「同胞合体の侍」だと、自らの正当性を誇っています。

以後も、大きな出来事のたびに記録(一括して天正記と呼ばれます)を書かせ、それはあちこちで披露されたり、配られたりしました。さらに天正記を原作に「(あけ)()(うち)」などの能を上演させました。これらは、秀吉の一代記として重要であると同時に、まわりにどのように見せたかったのかも窺えます。秀吉は自己PR、宣伝に熱心だったようです。

さて秀吉は、摂関家の関白就任争いに乗じて、(この)()(さき)(ひさ)の養子「(ふじ)(わら)(のあ)(そん)秀吉」として関白になります。さらに同年10月までには、異例にも新たに「豊臣朝臣」という新しい氏姓を作り、豊臣朝臣秀吉になります。改姓の書類は天正13(1585)年9月9日という、重陽のめでたい日付で出されています。この豊臣姓は以後、配下の主な武将たちにも与えられました。

10月6日、秀吉は関白となって初めて天皇の許に赴きました。この時、弟・秀長、甥の秀次をはじめ多くの人々が昇進しました。秀吉の参内の様子は、奈良の僧侶が日記に「秀吉は新王である」と記したほどです。新たな権力者の威光を感じる盛大な行列だったのでしょう。

7日、宮中で秀吉主催の茶会が催され、(おお)()(まち)天皇、子・(さね)(ひと)親王、孫・(かず)(ひと)(おう)(のちの後陽成天皇)をはじめ、公家・門跡が残らず参加しました。またこの時の茶頭は、天皇から「()(きゅう)()()」号を与えられました。有名な千利休です。

8日、昇進した武将たち、公家たちが秀吉の許に、あいさつのため集まりました。秀吉に献上されたお礼の品々は、金・銀・錦の巻物など前代未聞の豪華さだったようです。

さらに9日には、秀吉のもとに連歌師・里村(じょう)()をはじめ文化人たちが集まり、夢のお告げで得た句を発句とする夢想連句が行われました。その発句は

  豊かにも公家殿上人の心地かな

「豊臣(豊かな臣)」という新たな姓の創出、豊臣姓で多くの家臣が公家や殿上人になったことを寿いだ句でしょう。以下、秀吉の栄え、長寿、治世の平穏、氏の繁栄を祝う句が続きます。秀吉の得意顔が目に浮かびますね。

この一連の華やかな催しは、「豊臣」秀吉政権の盛大なるお披露目でしょう。

織田信長とはタイプの異なる、けれん味たっぷりの権力者の登場です。これまで家康が頼りにしてきた石川数正も、秀吉のもとに行ってしまいました。家康はどのように秀吉に対峙していくのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。