家康と秀吉はそれぞれ小牧山城(現在の愛知県小牧市)と楽田城(現在の愛知県犬山市)に陣を構え、対峙しました。それからしばらくは両軍とも城の防備を固め、戦は膠着状態になりました。

その状況を打破するため、4月6日、秀吉は羽柴秀次(この時は信吉)を大将に、池田(つね)(おき)(しょう)(にゅう))・森(なが)(よし)ら2万人の別動隊を、岡崎方面に出陣させました。秀次は秀吉の姉の子で、この時17歳の若武者でした。秀吉はおいを大将に引き立て、手柄を立てさせようとしたのでしょう。

ほかのメンバーはどういった人々でしょう。恒興は織田信長の乳母の子で、幼いころから信長に仕え、戦功をあげています。清須会議のメンバーでもある織田の重臣です。

長可は、信長の小姓として本能寺で亡くなった森乱の兄で、「鬼武蔵」と呼ばれた勇将でした。いずれも織田に古くから仕える有力な家臣です。頼もしい一方、低い身分から織田家に仕え出世し、いまや天下人になろうとしている秀吉には、ちょっと煙ったい存在だったと思われます。また秀次も長可も恒興の娘婿、という関係でした。

9日、別動隊の先陣は尾張岩崎城(現在の愛知県日進市)を落としました。三河への入り口にある城です。

家康は別動隊の行動を聞き、急いで駆け付けました。そして白山林(現在の愛知県名古屋市)で秀次軍を破ります。白山林は、岩崎城より6kmほど北にありますので、岩崎城の落城には間に合いませんでしたが、かなり長く伸びていた別動隊の後ろから追いついたことになります。家康軍はさらにその前方に居た堀秀政隊を敗走させました。

先陣の恒興・長可らはこの知らせに慌てて引き返し、長久手(愛知県長久手市)で戦いとなります。この戦いは家康方の大勝となり、恒興・長可は討死しました。

家康はあちこちに手紙で敵を1万人ほど打ち取ったと知らせています。大坂の本願寺の日記では、最初1万人と書き、その後、実は3,000人ほどだったらしいと訂正されています。誇大広告もあったようですが、大勝利には間違いないでしょう。

ところで戦いの後、秀吉は岩崎城落城後、南下して岡崎に向かっている途中に戦争になったと、他の人に伝えています。後ろから襲われたのではなく、進軍の途中の戦いとするポジティブな演出ですね。

一方、家康側はどうでしょう。この一連の戦いは後世、「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。家康側も、岩崎城の落城や、その後の展開には目をつぶり、大勝した「長久手の戦い」をクローズアップしたのでしょう。戦争でしばしば見られることでしょうが、いずれも自らに都合の良いよう事態を飾って語っていると指摘されています。

このように家康は秀吉に対して力を示しましたが、その大勝利は局地戦にとどまった面もありました。その後、(のぶ)(かつ)・家康軍が小牧山城から進むことはありませんでした。

さて、前回のドラマで本多正信は「越中の佐々成政、土佐の長宗我部元親、紀州の根来衆、雑賀衆らを巻き込めば、畿内の秀吉を日ノ本全土でぐるりと取り囲むことができる」と語っていました。

実際、信雄・家康はこれらの勢力に味方になってくれるよう働きかけ、各地で戦いが起こっています。つまりこの戦いは、家康と秀吉が直接に対峙した尾張周辺だけでなく、広範囲の戦争だったのです。

ドラマで秀吉は、「家康にゃあ勝たんでも、この戦にゃあ勝てる」とうそぶいていました。石川数正も何かを心配しています。さあ、秀吉はどうしようというのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。