家康は、織田(のぶ)(かつ)と手を組み、羽柴秀吉と対決する覚悟を固めたようです。

同盟相手、キーパーソンとなる信雄は、どのような人物なのでしょうか。信雄は、織田信長の次男として永禄元(1558)年に生まれました。家康の長男・信康より一つ年長、ほぼ同世代ですね。生まれた時に髪の毛が多かったらしく、(ちゃ)(せん)のようなまげが結えそうだと、幼名茶筅丸と名づけられたといいます。

永禄12(1569)年、父・信長は伊勢の名門・(きた)(ばたけ)を攻めます。伊勢は海上交通の要で、信長としてはぜひ押さえておきたい土地でした。この戦いの結果、茶筅丸は北畠を養子として継ぐことになりました。以後、織田の武将としてさまざまな戦いに参加しています。

果敢で、子どもたちの中でもっとも父に似ているといわれる信雄ですが、軽率なところもあったようです。天正7(1579)年には、無断で隣国伊賀に攻め入り、大敗しました。

信長は烈火のごとく怒りました。摂津への遠征が嫌だという浅はかな考えで伊賀に攻め入ったのか、家臣たちも討ち死にさせて、そのような考えでは親子の縁も切るぞ、と𠮟りつけています。

本能寺の変の直後には、安土城が燃えてしまいます。これはおそらく明智勢によるものですが、宣教師の記録には愚かな信雄が燃やした、と書かれています。当時の人々に、信雄は少し軽率な人というイメージがあったことがうかがわれます。

清須会議では、幼くして当主となった三法師(兄・信忠の子)の名代(代理)をめぐって、同い年の弟・信孝と争いました。しかし結局どちらも名代とはなりませんでした。この時、信雄は尾張を与えられ、名前も「北畠(のぶ)(おき)」から「織田信雄」となりました。

その後、家中での勢力争いが続き、清須会議で定められた体制は崩れます。天正11(1583)年正月、秀吉に担がれた信雄は安土城に入り、織田家当主となりました。この就任は、秀吉から家康にも伝えられています。

しかし柴田勝家を滅ぼすと、秀吉の権力はどんどん大きくなります。信雄の補佐としてではなく、秀吉自身が権力者として天下を差配する動きを見せるようになります。本拠地となる大坂城築城にも取り掛かりました。

信雄は安土城を追われ、尾張・伊勢・伊賀の大名として帰国させられました。秀吉にとって手駒としての利用価値が薄れたのでしょう。

信雄はもちろん納得しません。自らが織田家当主である、と主張します。かくして信雄は秀吉と対立し、家康を頼ってきました。

天正12(1584)年2月、家康は信雄に「密事」を伝えます。さらに3月9日、「秀吉がやりたい放題の振る舞いなので、信雄と相談して討ち果たすため出陣した」と北条氏直に手紙を送りました。

家康は、なぜ信雄の頼みを受け入れたのでしょうか。本能寺の変ののち、家康は織田家中の争いには直接かかわらず、甲斐・信濃方面の掌握に力を入れていました。

武田滅亡により、織田の勢力圏になったばかりの地域です。これは秀吉以下、織田の重臣たちの了承を得た行動でした。家康は引き続き織田の武将として行動し、秀吉ともやり取りしています。

しかしこの東国の掌握に秀吉から、まだかまだかとの催促や家康の権限を侵そうとする動きが増えてきました。このことにむっとしていたのでしょうか。また織田の有力武将の一人として、信長の子・信雄を担ぐことで、自らに正当性が得られると思ったのかもしれません。

本能寺の変以降、めまぐるしく情勢が変わっていきますが、いよいよ秀吉と臨戦態勢です。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。