天正11(1583)年4月、柴田勝家の北庄城(現在の福井県福井市)は、羽柴秀吉の軍に攻め滅ぼされました。勝家と再婚したお市も共に亡くなりました。

お市はどのような経緯で勝家と再婚し、そして亡くなることになったのでしょうか。

天正元(1573)年、最初の夫・浅井長政は兄・織田信長に滅ぼされます。お市は娘たちとともに織田家に戻り、のちには岐阜城に住んでいました。

穏やかな日々を送っていたお市に、天正10(1582)年の本能寺の変によって転機が訪れます。変を起こした明智光秀は、備中高松城(現在の岡山県岡山市)から、急遽戻った秀吉に敗北し、ひとまず事態は落ち着きました。

織田家は信長の長男・信忠の子、数え年3歳の三法師が継承しました。6月27日、秀吉・勝家・丹羽長秀・池田恒興らの重臣は、三法師が滞在していた清須城(現在の愛知県清須市)に集まって今後のことを決めました。「清須会議」と呼ばれます。

ここで、信長の次男・(のぶ)(かつ)と三男・信孝のいずれを三法師の代理とするか、議論されましたが、結局重臣たちの合議により三法師をもりたてることになりました。また所領の配分も定められ、秀吉の勢力が大きく伸びます。重臣たち、信雄・信孝、そして家康がこの取り決めに従うと誓約書を出しました。この時期の家康はあくまで織田の武将として行動していました。

お市の結婚も清須会議で決まったようです。お市は、9月11日に勝家室として信長の百日忌法要を催しており、これ以前に結婚していたのでしょう。

では、なぜ勝家と結婚したのでしょうか。江戸時代には、勝家・秀吉の2人がお市に想いを寄せており、勝家が勝利した、という伝承が流布していました。肖像画の美貌はよく知られていますよね。

ただ実際には信長没後の権力争いが絡んでいたようです。勝家は、清須会議で長政の旧領・長浜を配分されており、支配の正当性を得るために、長政の妻だったお市と結婚した、また重臣たちを織田一門とする姻戚関係構築のため、との説も出されています。秀吉は、信長の息子の1人・秀勝を養子にしており、それと同様の姻戚関係を勝家とも、という計らいです。

こうして信長没後の織田体制が整いましたが、すぐに信孝と信雄の間に対立が生じました。2人はそれぞれ勝家・秀吉と結び、家中は分裂していきます。百日忌法要を、お市の主催名義で勝家が行ったのも、こうした家中の主導権争いを反映しているのでしょう。

一方の秀吉は、10月15日に秀勝を喪主として信長の葬儀を行いました。重臣のうち長秀と恒興はこの葬儀に代理を送り、秀吉に与する姿勢を見せています。

その後もさまざまな駆け引きがありましたが、勝家は織田体制から排除される形となり、賤ヶ岳の戦い、北庄城落城へと至ります。お市の気持ちはどうだったのでしょう。

秀吉がお伽衆・大村由己に書かせた『柴田退治記』という軍記には、勝家に城を出るよう勧められたお市は「私は冥途黄泉までもご一緒にと誓いました。たとえ女人であっても心は男子に劣りません。ともに自害して、極楽浄土であなたと同じ蓮台に生まれる事を願っております」と言い、城に残ったと記されています。念仏を唱えながら毅然として亡くなったようです。

茶々・初・江の3人の姫は、秀吉に託されました。3人とも10代前半の少女でした。

一方、家康は東国に目を向けており、この争いには直接関わっていません。今後織田家中の権力争いはどうなるのでしょう。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。