#9 源頼朝と兄弟の画像
兄・頼朝(大泉洋)との再会が待ち遠しい義経(菅田将暉)だったが......(第9回より)。

今回は、源よりともの兄弟についておさらいをしておきましょう。

まず祖父と父から。祖父・ためよしは清和源氏の一つの河内源氏の嫡流です。その長男・義朝は父と仲が悪く、嫡流の地位は弟のよしかたに、そして次の弟にと移ったようですが、保元の乱(1156)で為義を斬り、義朝が嫡流になりました。

義朝の長男はよしひら(1141年生)。母は一説には三浦義明の娘。関東で育ち、父の代理として東国経営に励みました。父の東国進出の野望を実現する重要な補佐役でした。

権益争いから叔父の義賢を武蔵国で殺害します。当時2歳の遺児(義仲)は木曾で成長します。義仲にとって、親のかたき。頼朝はその弟です。

義朝の次男・ともなが(1144年生)の母は波多野よしみちの妹とも。都で育ち、平治元(1159)年2月に中宮しょうじょうになりました。

そして三男が頼朝(1147年生)。母は熱田大宮司藤原すえのりの娘。都で育ち、皇后宮ごんのしょうじょうとなり、平治元年1月にひょうえのじょうに、12月には一旦勝利した平治の乱の功績で、ひょうえの権佐ごんのすけになりました。母の家柄と影響力を後ろ盾として、朝長を超え、河内源氏の嫡流と認められました。

順調な人生は、その後の乱の敗北により、すべて崩れました。三兄弟は父と共に逃亡しますが、義平は途中で別れ、再起を図り失敗。処刑されます。

朝長は途中で負傷し、自害をしたとも義朝に殺されたとも伝わります。頼朝の同母弟、まれよし(1152年生)は土佐に流され、頼朝挙兵の後に殺害されました。

それでは、平治の乱のときにまだ幼かった弟たちの行く末は……。まずのりより。母は遠江とおとうみ国池田宿の遊女。京で育ち、頼朝挙兵後、義経と共に平家追討に出陣します。

とは言うものの、義経の活躍の陰に隠れ、目立ちません。建久4(1193)年、反逆の疑いをかけられ、伊豆国に移され、まもなく殺されたと思われます。

そしてとき御前を母とする三兄弟。乱の勃発時、いまわか(1153年生)7歳、おとわか(1155年生)5歳、うしわか(1159年生)1歳。

その後、母に連れられて逃げましたが、清盛のもとに出頭。牛若はくらに預けられて成長し、やがて出奔して元服。義経と名乗り平泉へ。その後の躍動がドラマを盛り上げますね。

今若は出家してぜんじょう。京都周辺で成長したようです。頼朝の挙兵に呼応して東国に移ったとされています。北条時政の娘と結婚しますが、子どもの年齢を考えると、実際には、頼朝挙兵以前にっていたことになります。

建仁3(1203)年、ほんの疑いをかけられ、殺されます。乙若も出家しえん(あるいはえんじょう)。頼朝挙兵に応じます。残念ながら、その翌年、すのまたがわの合戦で討ち死にします。

東国での勢力拡大のために東海道沿いに縁戚を広げ、地元の豪族や武士を取り込み、京への足掛かりを作っていった義朝。それぞれの場で成長し活躍する頼朝の兄。一転して不幸な境遇に放り込まれた頼朝と兄弟。

河内源氏一族の祖父・父・息子のすさまじい生と死です。

(NHKウイークリーステラ 2022年3月11日号より)

静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。