本能寺の変が勃発した時、家康は畿内の遊覧中でした。明智光秀は坂本城に入り、東に向かう交通の要衝の大津・勢多・松本(いずれも滋賀県大津市)などを抑えます。
家康一行は数百人程度、ある程度の人数とはいえ、軍勢を率いているわけではありません。このままでは危険な状況です。なんとかして250㎞ほど離れた岡崎に帰らなくてはなりません。箱根駅伝往復より少し遠い距離です。
6月2日に知らせを聞いた家康は伊賀・伊勢路を通り、わずか3日で三河まで帰り着いたようです。のちに「神君伊賀越え」「ご生涯艱難の第一」と称される大脱出劇でした。
ところでこの伊賀越えのルートについては、いくつもの説あります。以下に主だった3ルートをご紹介しましょう。
まず一つ目、家康の家臣・石川忠総の『石川忠総留書』に見えるルートです。忠総自身は伊賀越えに加わっていませんが、参加した親戚たちから聞いたのでしょう。
留書によれば、①家康は初日6月2日に堺から山城国宇治田原(京都府宇治田原町)までの約52㎞を、3日に近江国甲賀郡信楽(滋賀県甲賀市)の多羅尾氏の小川館まで約24㎞を、4日に北伊賀路を通り桜峠から伊賀に入り、丸柱(三重県伊賀市)・柘植・加太と伊勢まで約68㎞を走り、海路三河に戻ったといいます。
二つ目は、19世紀前半に江戸幕府が編纂した『徳川実紀』に見えるルートです。この書では、②3日目小川館から南の多羅尾方面に向かい、御斎峠を越えて伊賀に入り、丸柱に至り、そして伊勢にというルートを記しています。伊勢・京都を結ぶ主要な道で、伊賀を通る距離がもっとも長いルートです。
ただし伊賀は、この時天正9(1581)年に織田信長が侵攻してきた天正伊賀の乱の影響で、不穏な状況だったのが気がかりです。なお家康は、この戦いで伊賀を追われた人々を保護していたようです。
三つ目は、江戸時代前期の「戸田本三河記」などに見えるルートです。③小川館から北に向かい、油日(滋賀県甲賀市)を通って伊賀の柘植に、そして伊勢に至ります。主に甲賀を通ります。
すなわち3日目の小川館から柘植までの区間、北・中・南、どのようなルートを通ったかが異なるのです。
ドラマでは、家康は服部半蔵の勧めで多羅尾光俊を頼り、御斎峠を越えていました。他方、酒井忠次と石川数正は、おとりとして別行動をとりました。忠次は信楽近江路を、数正は桜峠を越えたようです。つまり家康が②ルート、忠次が①ルート、数正が③ルートになります。
実際に忠次たちが別行動をとったのかはわかりませんが、脚本家の古沢良太さんは、3つのルートが考えられていることを生かして、このような物語とされたのでしょう。
6月4日、一行は伊勢白子若松浦(三重県鈴鹿市)から、船で伊勢湾を渡って常滑(愛知県常滑市)、さらに三河大浜(現在の愛知県碧南市)に到着しました。家康の領地です。どうにか窮地を脱し、ひと安心ですね。しかし別行動をとった穴山梅雪は、途中で殺害されてしまいました。
家康の伊賀越えについて、イエズス会の報告書は「家康は多数の兵と、わいろのための黄金を持っていたのでなんとか避難した」と記しています。また帰国後に、家康は甲賀の和田定教らに礼状を出しています。
家康が人数とわいろ、地元の有力者たちの助けを得て、無事に逃げおおせたことがわかります。実は「艱難の第一」とまでいう程ではなかったのでは、とも考えられています。
さて、帰国した家康は次にどうするのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。