天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀が織田信長を襲撃しました。本能寺の変です。信長は思わぬ形で亡くなりました。家康にとって、永禄4(1561)年の清須同盟以来、あしかけ22年もの長きにわたり付き合った相手です。

今回は、信長と家康、2人の関係を振り返ってみましょう。

桶狭間の戦いののち、清須同盟が結ばれます。悲劇に終わりましたが、2人の子どもたち信康と五徳の婚姻はこの同盟の証でした。家康が、今川義元とのつながりを示す「元康」の名を「家康」に改めたのも同じ時期です。

家康は信長を後ろ盾に三河を統一し、今川や武田に対抗しました。信長も、強大な今川・武田との緩衝壁として家康を利用しました。このころは、だいたい対等の関係でした。

永禄11(1568)年、信長は足利義昭を奉じて上洛しました。同時期に今川が滅亡します。信長の立場が上がるにつれて、二人の関係も不均衡になっていきます。

その例を一つご紹介しましょう。このころ、家康は朝廷への献金の見返りとして「左京大夫」に昇進しました。朝廷は当初、直接家康に献金を依頼しましたが、これが信長には気に入らなかったようです。

結局、献金がなされたあと朝廷からのお礼は信長を通じて家康に伝える、という形をとっています。家康は朝廷から直接依頼される相手ではなく、信長の配下の武将、という扱いとさせているのです。

今川滅亡後は、家康は武田とたいすることになります。しかし当初、信長は武田と同盟を結んでおり、家康はその同盟を断とうと工作していました。

武田信玄の出陣、三方ヶ原合戦の大敗と、家康は苦戦します。天正2(1574)、3(1575)年ごろには、信長からの援軍は遅れがちだったようです。『甲陽軍鑑』には、家康が信長に援軍を催促し、これ以上遅れるなら裏切る、と難詰したというエピソードが記されています。

実際、家康の裏切りもありえないことではなかったでしょう。「どうする家康」でも描かれてきたように、大岡弥四郎の事件、伯父・水野信元の事件、瀬名と信康の事件、いずれも武田との内通が疑われた事件です。家康は多くの傷を負いました。

さて、長篠の戦のあった天正3(1575)年以降、信長との関係は大きく変化したと指摘されています。その変化は、2人の間の手紙からもわかります。現代でもそうですが、手紙の丁寧さは、お互いの関係を反映します。

家康が信長に出した手紙は、4通が知られています。家康は文章の結びに「(きょう)(こう)(きん)(げん)(失礼申し上げます)」と丁寧な挨拶を記しています。宛名は日付より上に「岐阜殿 人々御中」と書いています。紙の上の方に宛名を書くこと、直接に相手の名前を書かず、住んでいる場所の名で呼び、さらに「人々御中」と付けるのは、かなり丁寧な書き方です。

天正9(1581)年の手紙では、信長の家臣に宛てて、信長様に披露してください、と記しています。これはさらに丁寧な礼で、信長の権威が一段と上がっていることがわかります。

信長からはどうでしょうか。信長からの手紙は10通が知られています。当初は、対等の相手に対する礼儀でした。ところが天正3(1575)年ごろに変化します。

例えば結びの文句は、「恐々謹言(失礼します)」から、「謹言(さよなら)」と少し軽い、上から目線の挨拶になります。こうした礼儀から、家康は織田の一門の武将と同じ程度の扱いになったと考えられています。

本能寺の変の直前、長年の対立相手だった武田は滅亡しました。そして、家康の人生に大きな影響を与えた信長も亡くなりました。家康は41歳の壮年になっています。今後どうするのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。