天正10(1582)年6月2日早朝、家康が本能寺滞在中の織田信長を討ったとの報が、駆け巡っています。何が起きたのでしょうか。
まずは家康たちの足取りを追ってみましょう。この年3月に武田を滅ぼした後、家康は、穴山梅雪とともに、信長の居城・安土城(現在の滋賀県近江八幡市)に赴きました。信長に駿河・遠江を与えられたお礼を申し上げるためです。
主なお供は、酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・井伊万千代ら34名ほど。それぞれの家臣も含めると数百人の大人数だったと考えられます。
5月15日、家康一行は安土に到着します。安土城は信長が天正4(1576)年に築いた城です。琵琶湖にそびえたつ五重の黒漆塗の天主の威容、城下の賑わいに、一行は目を見張ったのではないでしょうか。
安土城では、当初明智光秀が接待役でした。3日間に及ぶ宴会には、京や堺からわざわざ取り寄せたごちそうが並び、19日・20日には当代の名手による能を楽しみました。
20日にも信長は、上機嫌で家康をもてなします。宴会では、主である信長自ら膳を運んだほどです。さらに家康に「京・大坂・奈良・堺を心静かに見物するのがよかろう」と勧めました。
勧めを受けて家康は21日に京に、28日ごろ堺に向かいます。堺には、信長の後継者・信忠も同行する予定でしたが、信長の出陣が決まり、京に留まることになりました。光秀は接待の途中で、出陣を命じられて去っています。
29日、信長は京に入りました。家康に優雅な遊覧旅行を勧める一方で、信長は大規模な軍事行動を起こすようです。どこに向かうのでしょうか。
実は織田軍は、東の武田のほかにも各地で戦っていました。信長の三男・信孝は四国攻めに、柴田勝家は越後上杉景勝方の越中魚津城(現在の富山県魚津市)を攻略しています。
羽柴秀吉は、中国地方の大大名・毛利氏の備中高松城(現在の岡山県岡山市)を包囲していましたが、その救援のため毛利の大軍がやってきました。秀吉は信長に援軍を請い、これに応えて信長は出陣しようとしていたのです。
このようにこの時、信長配下の諸武将は各地に出陣しており、自らの勢力内とはいえ、信長・信忠周辺は少し手薄な状況でした。当主と嫡男が同じ京にいるのも、万が一の時には危険でしょう。
また出陣前に武装した軍が行動していても、人々はあまり不審には思わなかったかもしれません。家康は、にわかに生じたその隙を狙って、何か事を起こしたのでしょうか。
たしかに家康は信長に思うところがあるかもしれません。瀬名・信康を失った悲しみ。さらに武田の滅亡によって、信長にとって徳川の利用価値が低くなったことへの警戒なども考えられるでしょう。
しかし信長に恨みを持つ人物は、何人もいます。例えば、明智光秀は、家康の接待中に、信長の気を損ねて蹴り飛ばされた恨みがあったといいます。自らが担当していた四国長宗我部氏との交渉では、信長に面子を潰され、不満を持っていたようです。
前将軍・足利義昭には、信長に京を追われた恨みがあるでしょう。そのほかにも、信長を亡き者にしたい人物・動機については、古くからいろいろな説が出されてきました。
家康たちは29日には堺に到着し、松井友閑のもてなしを受けています。事を起こすには無防備な中で迎えた6月2日でした。
大事件が勃発したようですが、家康は浜松から遠く離れた地に居ます。無事に帰ることができるのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。