家康たちは、ついに武田を滅ぼしました。「どうする家康」でも、常に眼前に立ちはだかっていた存在でしたね。
武田勝頼は、設楽原の戦い(長篠合戦)で大敗し、多くの重臣を失いました。しかし、その勢力はその後も強大でした。
この時期、周囲諸国との関係が政治に大きく影響します。勝頼は、越後の上杉謙信、相模の北条氏政らと同盟を結んでいました。謙信が天正6(1578)年に亡くなると、上杉では養子2人による後継者争いが勃発します。勝頼は上杉景勝と結びました。
ところが、もう1人の候補は、同盟相手・氏政の弟・上杉景虎でした。上杉の後継者争いは景勝の勝利となりますが、武田と北条の同盟は決裂しました。北条は家康と同盟を結び、東西から武田に対抗することとなります。勝頼は信長との和睦の道を探りますが、信長ははねつけました。
天正9(1581)年、家康は武田方の高天神城(現在の静岡県掛川市)を落城させます。高天神城は、天正3(1575)年に武田の手に落ち、遠江侵攻の拠点として、攻防が続いていました。この天正9(1581)年時の城将は、田中美央さん演じる岡部元信でした。かつて今川に仕えていた元信は、今川氏真が後北条に身を寄せたのちに、武田の家臣となっていたのです。
家康は前年より城の周囲に多数の砦、堀、土塁、柵を築き、補給路を厳しく断ちました。兵糧攻めです。窮した元信は、矢文を放ち、滝境城・小山城とともに降参を申し出ますが、信長は許しませんでした。
信長は、勝頼が城の救援に来ることはできないと踏んでいたようです。もし救援に来れば手間なく決着がつけられる、救援に来ないようであれば、勝頼は家臣を見殺しにした、と信頼を失うことになる、と家康に伝えています。
果たして、勝頼は救援に現れず、3月22日に高天神城は落城します。勝頼に仕える人々の勝頼への信頼は損なわれました。そのダメージは大きかったようです。
翌天正10(1582)年正月、木曽義昌(信玄の娘婿)が勝頼から離反しました。これをきっかけに信長軍は甲斐に攻め込みました。家康は駿河口から、信長・信忠親子は信濃伊那口から、そのほか北条氏政・金森長近が関東口・飛騨口から侵入します。
中でも信長の長男・信忠は破竹の勢いで進み、3月6日に甲府に至ります。穴山梅雪も、家康を通して信長に降伏しました。梅雪は信玄の甥であり、娘婿でもある有力者です。そのほか多くの家臣たちが勝頼を見限っていきました。
かくして3月11日、勝頼は田野(現在の山梨県甲州市)で亡くなりました。享年37歳でした。
信長としても予想以上のスピードだったのでしょう。3月17日に松井有閑に送った手紙で、武田滅亡の様子を伝え、「このように3、40日ばかりでこちらの勝利となるのは、我ながら驚きだ」と記しています。
3月29日、信長は論功行賞を行い、家康に駿河を与えます。「与える」ということは、この時期2人はもはや対等な関係ではなく、家康が信長配下の武将であることがはっきりしますね。
4月10日、信長は甲府をたち、帰路につきます。家康はその道中丁重なおもてなしをしました。その行き届いた心配りに、信長もたいそう喜んだといいます。お返しにと、家康を安土城に招きました。
武田を滅亡させためでたさとは裏腹に、家康の心中は穏やかではないようですね。どうするのでしょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。