天正7(1579)年8月3日、家康は岡崎城にやってきました。そして翌日、嫡男・信康を大浜城(現在の愛知県碧南市)に退去させ、家康もその近くまで出陣しました。
7日には岡崎城に戻り、8日付で織田信長家臣・堀秀政に「(先月)酒井忠次を通して(信康について信長に)申し上げたところ、懇切なご対応だったのは、(秀政の)種々のお取りなしのおかげです。ありがとうございます。信康は不心得者なので岡崎を追い出しました」と報告しました。
さらに9日、信康は浜松城近くの堀江城(現在の静岡県浜松市)に移されます。10日には三河の家臣たちに信康と連絡しないという起請文を提出させました。そして9月15日、信康は二俣城(現在の静岡県浜松市)で自害します。数え年21歳の若さでした。
瀬名も8月末に亡くなったようです。詳細は不明ですが、浜松に移送される途中に自殺したとの伝承もあります。
いったい何があったのでしょうか。実は、当時の史料からは確かな理由はわかっていません。
不穏な気配は前年から見えています。9月、家康は三河の家臣たちに、これまでのように岡崎に詰めている必要はない、領地に帰るようにと繰り返し通達しました。信康と家臣たちのつながりを絶とうとしたのでしょう。
その半年ほど前には、深溝城(現在の愛知県幸田町)の松平家忠のもとに、瀬名から異例にも手紙があり、直後に信康が訪ねてきたことがありました。こうしたことから、ひそかに家臣たちと連携しようとしているのかと、家康が警戒したのかもしれません。
五徳の父・信長は、この時期しばしば吉良(現在の愛知県西尾市)で鷹狩りを催していました。天正6(1578)年正月には、狩の途中、岡崎城に立ち寄っています。
信康と五徳の間には天正4(1576)年、5(1577)年と女の子が2人生まれていました。孫たちに対面したのでしょうか。あるいは何か心配なことがあったのでしょうか。信康と五徳の仲はあまり思わしくなかったとの伝承もあります。
天正7(1579)年6月5日には、家康が「仲直し」のために岡崎を訪ねてきました。どのような話し合いがあったのでしょう。家康は、早くも翌々日7日に、体調が悪いと言って浜松に帰りました。そして7月、忠次たちが信長のもとを訪れ、家康の信康追放の意向を伝え、許可を得たのです。
事件の背後には、天正3(1575)年に発覚した大岡弥四郎事件(#21 大岡弥四郎のクーデター「岡崎城を乗っ取り、武田勝頼さまをお迎えいたす」 )に、関与が疑われたことがあったのでは、と考えられています。この天正7(1579)年にも武田との戦いは続いています。武田と北条の関係が悪化し、家康は北条と結び武田を攻めようとしている状況でした。
そうした中で、武田に内通している可能性のある瀬名・信康の存在は、危険だったのでしょうか。『信長記』の古い本には、信康が信長に対して謀反を企て、家康たちの諫めを聞かなかったと記されています。
この年4月に於愛との間に長丸が誕生し、信康以外にも跡取りとなりうる男子を得たことも影響しているかもしれません(お万の産んだ子は、この時正式の子とは扱われていませんでした。※第19回放送「お手付きしてどうする!」)。
家康と瀬名、信康と五徳、瀬名と五徳、家康と信康、家族の中で実際にどのような思いがあったのかはわかりません。追放から自害までは1か月半ほどの時間があり、家康は当初2人を殺すつもりはなかったとも考えられます。大名の一家であれば、感情より政治的判断が優先されることもあるでしょう。
五徳は、翌年岡崎を離れました。瀬名と信康を失った家康、今後どうするのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。