瀬名の周辺がきな臭い雰囲気になってきました。そんな中、第24回のドラマでは氏真と糸(早川殿)が久しぶりに登場しました。2人は第12回放送「氏真」で懸川城を退去し、糸の生家・北条を頼っていったはず。なぜここにいるのか、驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

その後の2人の足取りをたどってみましょう。

懸川城を出た後、氏真は糸の父・北条氏康の庇護下に入りました。そして氏康の孫が、氏真の養子として今川当主になります。これにより北条が、もとの今川の領国を支配する正当性を得ました。氏真は以後、北条の下で駿河を取り戻すべく戦っていました。

しかし元亀2(1571)年、氏康が亡くなると糸の兄・氏政は武田と同盟を結びました。氏真は天正元(1573)年3月までには、糸とともに家康を頼ってきたようです。久しぶりの再会です。

氏真には、北条と武田と同盟した以上は駿河復帰が叶わない、との思いがあったのでしょう。そして家康にとっても、旧領主・氏真の存在は駿河を攻める大義名分になったと思われます。

『三河物語』では、家康は、氏真と数度の約束があった上に、氏真を保護すれば旧今川領国の人々も家康に親しみ、また氏真が親しい上杉謙信とも同盟ができると考えたと記しています。

氏真は出家して、(そう)(ぎん)という法名を名乗りました。

天正3(1575)年、氏真は寺社参詣のためとして京都に赴きました。この道中で詠んだ和歌が多数残されており、足取りがうかがえます。氏真は正月に出発すると、三河・尾張を経て、船に乗り伊勢楠に渡り、近江から京に入りました。

京では祇園社、三十三間堂、金閣などの神社仏閣、藤原定家の廟など和歌にゆかりの名所を精力的に訪れ、和歌を詠んでいます。

3月16日、かつての宿敵信長に挨拶に赴きました。この挨拶が旅の目的の一つでしょう。20日には信長の前で蹴鞠の技を見せました。4月3日・4日にも信長の許にそうそうたるメンバーが集まって蹴鞠が行われ、氏真も参加しました。

信長が蹴鞠に参加する例はあまり見えません。出陣の準備に忙しい中、続けての開催は蹴鞠に優れた氏真に対する心遣いでしょうか。

4月6日、信長率いる大軍は河内高屋城に向けて出陣しました。氏真はこの出陣の行列を見物した後、三河国境が騒がしいと急いで帰国しました。武田勝頼の三河侵攻です。

29日に名古屋に到着した時には「国境がいよいよ騒がしいので辺りも見ずに下向した」と記します。そして長篠の戦では、牛久保(現在の愛知県豊川市)で()()めを務め、戦後は武田軍の残党を追って駿河に攻め込みました。この戦いのあいまに詠んだ和歌5首が残されています。その一首。

月日経て見し跡も無き故郷にそのかみがきぞ形ばかりなる

かつて治めていた駿河を、月日を経て訪れた哀惜の想いが感じられます。

7月、家康軍は諏訪原城(現在の静岡県島田市)を攻め、氏真も参加しました。ここでも歌を多数詠んでいます。落城の日に詠んだ歌。

  見初たる心地こそすれ中絶し雲ゐに出る富士の白雪

ここは駿河との国境、最前線です。その城を落として、久しぶりに見渡す駿河、富士山に初めて見たような感動だったのでしょう。

翌天正4(1576)年、氏真は諏訪原城改め牧野城を与えられました。瀬名と交流があったかはわかりませんが、氏真自身は城ではなく浜松にいたと指摘されています。やはり駿河攻めのシンボル的存在だったのでしょう。

今川の名には、それだけの重みがあったようです。はたして氏真は駿河に帰ることができるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。