設楽原したらがはら)の戦いの翌天正4(1576)年、亀姫はめでたく奥平信昌に嫁ぎました。

一方、天正3(1575)年12月には家康の伯父・水野信元が成敗されました。母・於大の兄にあたる人物です。寺島進さんがちょっと曲者の信元を演じていましたね。どのような人物だったのでしょうか。

水野氏は知多半島を中心に勢力のある一族です。その中で信元の家は、尾張緒川城(現在の愛知県知多郡東浦町)を本拠とし、今川に属していました。母は大草松平信貞の娘、妻は桜井松平信定の娘、妹の於大は松平広忠の室、もう一人の妹は形原松平家広の室と、松平一族とも深い関係を結んでいました。

しかし天文12(1543)年、家康の父・広忠は、母・於大を離縁しました。従来、この離縁は信元が織田方に属したためと考えられていました。しかし最近は、この時点では今川に属しており、三河国内の勢力争いから広忠と断交したと推測されています。家康はまだ数えの2歳でした。

於大はのちに尾張国坂部城(現在の愛知県阿久比町)の久松長家と再婚し、源三郎勝俊ら数人の子を産んでいます。

信元は、織田信長が家督を継いだ頃に織田方についたようです。桶狭間の戦の後には、勢力を拡大し、刈谷城(現在の愛知県刈谷市)の同族を併合しました。そして家康と信長との同盟締結や三河一揆の講和にあたっては、家康をサポートしました。

北条氏康が、13代将軍・足利義輝の命を受けて今川氏真と家康の争いの仲介をしようとした時も、信元に懇切な手紙を送っています(#11 13代将軍足利義輝暗殺「将軍さま御討死」)。義輝だけでなく、15代将軍・足利義昭からも直接信長追討の命令書を受けたこともある格の人物でした。

信長・家康双方の近くで重んじられ、かつちょっと煙たい厄介な存在だったのではないでしょうか。

信元は、家康が武田信玄と戦った三方ヶ原の戦、武田勝頼と対峙した長篠の戦にも参加していました。三方ヶ原の戦の折には、ほうほうの体で岡崎に逃げ、信玄に内通していると噂されたという伝承があります。

信元の事件について、同時代の史料ではよくわかりません。江戸時代初期の『松平記』によると、きっかけは美濃岩村城(現在の岐阜県恵那市)攻めにあったようです。長篠の戦いの後、信長は岩村城を攻め、11月に落城させました。この時、籠城する城兵が食べ物に困り、近隣で道具を売って食べ物を調達していました。

これに信元の領地の人々が応じている、信元は武田に内通していると、佐久間信盛が信長に(ざん)(げん)しました。さらに弁明のために遣わした使者が、信長の使者とけんかになり、2人とも亡くなってしまいます。申し開きもできなくなった信元は成敗された、と記します。

武田との内通の真偽は不明ですが、武田は信長・家康との勢力圏の境になる諸勢力に声をかけていました。信元にも声がかかっており、疑われた可能性はあるでしょう。なお、のちに信長は信元の弟・忠重に水野家を再興させています。

ところで、ドラマではこのところ瀬名のもとに古川琴音さん演じる千代が訪ねてきています。千代は、伝承に甲斐・信濃の巫女(みこ)頭とされる歩き巫女・望月千代女をモデルにした人物でしょう。歩き巫女とは、各地を遍歴し祈祷などを行った宗教者です。

あちこちにいても怪しまれないので、武田では彼女たちを使って情報収集をしていたといいます。そしてこの時期、岡崎には歩き巫女が大勢出没し、瀬名のもとにも出入りしていた、という伝承があります。

信元は殺害され、岡崎には歩き巫女たちが出没しています。武田との戦いは今後どのようになるのでしょう。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。