前回、岡崎から長篠城に走り戻った鳥居強右衛門は、武田軍に捕まってしまいました。長篠城は二本の川に挟まれた断崖の上にあります。堅固な城ですが、それだけに武田軍の包囲の中で、ひそかに出入りするのは困難でした。
捕らえられた強右衛門は、城の前に引き出され、「援軍は来ない、降参せよ」と言うよう命じられました。籠城する奥平勢の気持ちをくじこうとしたのでしょう。
しかし強右衛門は逆に援軍の到来を告げ、殺されてしまいました。享年36歳と伝わります。
この磔になった強右衛門の姿を描いた「落合左平次道次背旗」という旗があります(東京大学史料編纂所所蔵)。たて約145cm、横約133cmの大きな旗で、真っ赤になった男性がふんどし一丁で大の字に磔にされ、目をかっと見開き、髪の毛は逆立っている、壮絶な姿が描かれています。大変にインパクトのある旗です。ぜひ検索をしてご覧になってください。
「落合左平次道次背旗」の落合左平次は旗の持ち主です。当時武田に仕え、長篠に従軍しており、そして強右衛門の壮絶な様子を見て、感動し、その姿を背旗とした、というエピソードが伝えられていました。
実際には、左平次は徳川方で、また長篠にはおらず、旗はもう少しあとに作られたものと指摘されています。しかし強右衛門のエピソードは、それだけのインパクトがあったのでしょう。
この強右衛門の姿は、あるいは頭を下にした逆さ磔ではないか、という説もありました。さらに凄絶な姿ですね。しかし最近の調査で、旗は頭が上の状態で描かれていたことが明らかにされています。
また旗に、矢などによる傷、血痕が残されていることもわかりました。強右衛門の姿は、実際に戦場(大坂の陣か)ではためいていたことがあるようです。戦場でのお守りにしようとしたのでしょう。
さて、強右衛門が命を賭けて伝えた通り、信長・家康の大軍が到着します。しかしなかなか動きません。これを見て勝頼は対決を選び、両軍は長篠城からほど近い設楽原で対峙しました。現在の新東名高速道路の長篠設楽原PAの付近です。
そして5月21日、早朝から合戦が始まりました。酒井忠次隊が長篠城の背後鳶ヶ巣山砦を落とし、城を包囲している武田軍に奇襲をかけました(ちなみにこの作戦会議で、信長が忠次に踊りを所望した、という話が後世の伝承に見えます)。
武田軍の後方には信長・家康軍がいます。馬防柵と呼ばれる柵を作り、攻め寄せる武田軍に鉄砲を撃ちかけました。武田軍も鉄砲を持っていますが、織田軍に比べ弾薬が充分ではなかったと指摘されています。戦場付近が湿地帯で、武田軍の馬の動きが妨げられたこともあったようです。
前後を挟まれた武田軍は、同日の夕方には敗走しました。重臣・山県昌景、真田信綱・昌輝(2016年大河ドラマ「真田丸」の主人公・信繁の伯父)をはじめ千人以上が討死。勝頼は命からがら逃げのびました。
なぜ武田軍は大敗したのでしょう。武田の家臣が記したとされる『甲陽軍鑑』は、勝頼が「強すぎたる」大将だったためと記します。強く、自信があったために適当なところで撤退せず、家臣の意見を聞かず、対決を選択してしまったことが、敗北を招いたのでしょう。
家康たちはさらに追撃し、二俣城(現在の静岡県浜松市)・武節城(現在の愛知県豊田市)など武田の城を陥落させていきます。ひとまず脅威は去りました。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。