家康の長女・亀姫の縁談がまとまりました。亀姫は、桶狭間の戦いのあった永禄3(1560)年の生まれで、天正3(1575)年には数えの16歳でした。

亀姫の婚約者は、この時(なが)(しの)(じょう)(現在の愛知県新城市)を守っていた奥平(のぶ)(まさ)です。どのような人物でしょうか。ご紹介しましょう。

奥平氏は、三河国設楽(しだら)(ぐん)(つく)()(現在の愛知県新城市)を本拠とした一族です。この付近は奥三河と呼ばれ、信濃や遠江(とおとうみ)と境を接する山間地域、つまり武田・今川・松平・織田などの勢力のせめぎあう場所です。ここを本拠とする有力な国衆三氏((やま)()三方(さんぽう)(しゅう))のうちの一つが奥平氏でした。

奥平氏は、今川義元の時期には今川に属していました。今川氏真が没落すると、家康の配下となります。そして元亀3(1572)年、武田信玄が侵攻してくると今度は武田方につきます(第16回放送「信玄を怒らせるな」で登場しましたね)。各勢力のはざまで、変動する力関係を注視し、生き残りのため奔走していたのです。

その後、山家三方衆の間で所領をめぐる争いが発生します。この争いに対する武田の裁定に奥平氏は不満を持ったようです。その奥平氏に、家康は働きかけました。

元亀4(1573、天正1)年8月20日、家康は奥平氏に対して7か条の起請文を出します。その1条目には、約束の縁組を9月のうちに行う、縁を結んだ以上は見放すことはしない、と書かれています。この縁組が信昌と亀姫のものでしょう。

婚姻がこれ以前に約束されていたことがわかります。家康は娘との縁を通して、武田との境にいる奥平氏を強い味方にしたかったのでしょう。この縁談には織田信長からのアドバイスもあったようです。

以下6条目までは、従来の領地に加えて、新たな土地を与えることを約束しています。7条目は信濃の土地について、信長に口利きするとの条項です。全体に奥平氏に対して好条件を提示したといえます。こうして信昌は家康の味方となりました。しかしその結果、武田に赴いていた弟・仙丸たち人質は殺害されてしまいました。

このような経過で、亀姫と信昌は婚約しました。しかしその後の戦況の変化により、婚儀は延び延びになっていました。また亀姫の兄・信康は、妹の婚約に不満があったようです。援軍に来た信長に訴えますが、「信昌は忠義の人物で重要地点を任されているのだから、家康の判断に従うように」と説得された、と『三河物語』には記されています。

天正3(1575)年2月、信昌は長篠城の守備を任されます。この長篠城に武田勝頼軍が押し寄せ、5月1日には攻撃が始まりました。そして家康に救援を求めましたが、援軍はなかなか来ません。

そもそも勝頼の侵攻に、家康は織田信長に援軍を求めていました。しかしなかなかいろよい返事が来なかったようです。それは信長がこの時期、畿内で大坂本願寺らと戦っていたためです。本願寺らは勝頼に援軍を求め、これに応えたのが、今回の出兵でした。

幸いこの年4月には畿内での戦いが一段落し、信長は、家康の救援に出発しました。織田軍3万人。『信長記』には、信長は「国衆」のことなので、援軍に来た、と記されています。つまり家来の事だ、家康は家来だ、としているのです。2人の関係にも変化が生じています。

亀姫と信昌は無事に結婚できるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。