岡崎城内で大事件が起きました。天正3(1575)年3月下旬ごろ、大岡弥四郎をはじめとする家臣たちが、武田に内通していたことが発覚したのです。

武田信玄の死後、跡を継いだ勝頼は勢力を広げまして、奥三河や遠江(とおとうみ)・高天神城(現在の静岡県掛川市)を押さえていきます。そして天正3(1575)年4月、信玄の三回忌が執り行われ、勝頼は自ら岡崎に向けて出陣してきました。この出陣と連動して事件が起きます。

企てを主導した大岡弥四郎とは、どのような人物でしょうか。

大岡氏は松平の譜代の家臣の家です。弥四郎はこの時期には、岡崎の町奉行あるいは三河渥美郡20郷余の代官という要職にあったようです。『徳川実紀(じっき)』は、生まれつき算術も巧み、経理・徴税に手腕を振るったため重用され、「弥四郎がいなくては何もできない」と言われるほどだった、と記します。有能な人物だったのでしょう。

実は、この謀反事件は同じ時代の史料には見えず、実態ははっきりしません。また後世の記録でも徳川家臣団の名誉に関わる事でもあるため、ぼんやりした記述になっている可能性があります。例えば、家臣・大久保(ただ)(たか)の『三河物語』や幕府の公式記録『徳川実紀』では、栄達した弥四郎が慢心のあまり事件をおこしたと、個人的な野望による事件のように記しています。

実際には、謀反事件の背景には、家中の政治路線の対立があったのでは、と指摘されています。浜松の家康や重臣たちは、武田と戦おうとしていました。しかし武田との戦いは何年も続き、国境地帯は苦境にあります。浜松の対武田主戦派に対し、特に岡崎城の家臣たちには、武田との戦いに対する不安な思い、方針の見直しを求める声がありました。

事件の後に処罰された者には、信康の家老・石川春重、岡崎町奉行・松平新右衛門など重要人物がおり、信康の家中にそれなりの広がりを持った事件だったようです。瀬名が関与していたという噂もあります。

弥四郎たちは、武田軍を岡崎城に引き入れ、信康を新たな徳川家当主としようとしました。自分が岡崎城の門前で、「家康様のお成りだ、開門せよ」といえば、門は開き、勝頼を導き入れることができるという自信もあったようです。もし、岡崎城を取られてしまうと、三河は武田の支配下となり、家康は滅亡の危機に瀕したことでしょう。

しかし幸運にも、企ては露見しました。捕らえられた弥四郎や家族は無惨な殺され方をしたようです。それだけ家康にとって脅威となる事件だったのでしょう。のちのちまで事件の影響が見られます。 

また、このころ井伊虎松が家康の家臣になりました。家康が鷹狩に赴く途中、ただ者ではない様子の少年を見出して家臣としたという逸話が伝わりますが、実際には政治的配慮に基づく抜てきでした。

「おんな城主 直虎」(2017年)でも描かれたように、井伊家は浜名湖の東北、()伊谷(いのや)(現在の静岡県浜松市)に勢力があった一族です。井伊谷は、かつて信玄が遠江に攻め寄せた時には、武田の侵攻ルートとなるなど、重要な位置でした。家康は武田との対抗上も、井伊谷に影響力を持つ井伊出身の虎松を家臣としたかったのでしょう。虎松は以後、家康の側近くに仕えます。

さて、弥四郎の謀反発覚により、勝頼は進路を変更しました。家康のいる吉田城下(現在の愛知県豊橋市)を攻め、さらに次の目標にと転進します。対決の時が近そうです。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。