元亀4(1573)年4月21日、武田信玄は亡くなりました。享年53歳。阿部寛さんのどうどうたる迫力が目に焼きついていますね。

三方ヶ原の戦いののち、武田軍は三河を進んでいましたが、信玄の体調悪化により引き返していきます。そしてその途上、亡くなりました。

信玄は「三年の間自らの死を秘密にせよ」と遺言した、との伝承が『甲陽軍鑑』に記されています。実際、信玄の死後に家臣が「こちらでは、ご隠居様(信玄)は煩っていらっしゃる(死去ではなく、病気による隠居)との手はずだ」と他の家臣に通達しています。また、あたかも生きているかのように信玄名義の書類が発行されました。

これらを見ると、武田では本当に死亡を秘密にしようとしたようです。偉大な信玄の死去が知られると、国の内外に影響が大きい、と考えたのでしょう。

しかしこのような工作にもかかわらず、信玄死去の報はあっという間に広がりました。早くも死去の数日後には、上杉謙信の家臣のもとに「どうも信玄が亡くなったのではないか」という情報が届いています。

信玄の死は、家康や織田信長にとって(ぎょう)(こう)となりました。勢いを取り戻した織田信長は、7月に将軍・足利義昭を追放します。

5年前の永禄11(1568)年に義昭を将軍にしたのは信長です。しかし徐々に亀裂が生じていきました。元亀3(1572)年末、信長は義昭に17か条の意見書を送付し、𠮟責します。また同じ文章をあちこちに届け、義昭は将軍にふさわしくないとアピールしました。

翌年2月、義昭は信長と決裂し、信玄や朝倉よしかげ・本願寺など各地の武将に信長追討の命令を出しました。(おお)()(まち)天皇の仲介を得て一度は信長と和睦しますが、まもなく再び挙兵します。

信玄からも忠誠を誓う起請文が届き、義昭は喜んで返事を認めました。ただ義昭は知りませんでしたが、その時にはすでに信玄は亡くなっており、義昭の援護をすることはできなかったのです。

義昭が宇治(まき)(のしま)(じょう)(現在の京都府宇治市)から、乗物にも乗れず徒歩で落ち延びる姿は、目も当てられず哀れな有様だったといいます。義昭はその後も再び上洛すべく活動していましたが、ここに実質的に室町幕府は終焉を迎えることになります。

直後に信長は、天皇に願って年号を「元亀」から「天正」に改めました。少し前から改元の話は出ていましたが、進んでいなかったところ、にわかに信長から申し入れがありました。新しい年号は通常、朝廷と将軍が調整して決めますが、「天正」は候補の中から信長が選びました。信長による新たな時代の到来を象徴する改元でしょう。

さらに信長は8月に朝倉義景、9月に(あざ)()長政を滅ぼし、ひと息つきました。

家康もさぞやほっとしたことでしょう。武田軍に対して反撃に転じ、駿河に攻め込み、さらに同年9月には長篠城(現在の愛知県新城市)を落としました。長篠城のある奥三河の地は徳川・武田両勢力の境目にある重要なポイントでした。家康はこの地の勢力に働きかけを進めます。この働きかけは、家康の家族にも大きな影響を与えることになります。

さて、信玄の死後、跡を継いだのは勝頼です。勝頼は家康より4歳年少で、この時28歳でした。信玄の体調悪化により一度は退いた武田軍ですが、再び攻め寄せてきます。

この後、家康は勝頼にどのように対抗していくのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。