武田軍に大敗する中、甲本雅裕さん演じる夏目広次が、家康の身代わりとして戦死しました。

ドラマでは、家康が広次の名前を間違えるやりとりが、くりかえし少しユーモラスに描かれていました。実は彼は、のちの記録では「広次」ではなく、「吉信」「正吉」などの名前で伝わっているのです。

ただし同時代、永禄12(1569)年の日付の書類に、本人が「広次」と署名していますので、現在では「広次」が実名とされています。広次は改名をして、「吉信」「正吉」を名乗っていたこともあるかもしれませんし、これらは後世につけられた名前かもしれません。脚本家の古沢良太さんは、そうした名前の揺らぎを題材にされたのでしょう。

戦国時代の人物の実名が、その後の軍記や講談などで使用される名前と異なることは、よく見られます。例えば2016年の大河ドラマ「真田丸」の主人公も、長く真田幸村として親しまれていましたが、実は信繁という名だった、と明らかにされています。

さて、三方ヶ原合戦での広次の壮烈な討死については、江戸幕府の公式の歴史書『徳川実紀』にも記されています。その記事からご紹介しましょう。

広次は、三方ヶ原の合戦の時には、浜松城で留守を預かっていました。しかし敗戦の報を聞き、急いで家康のもとに駆けつけます。家康が敵中に引き返していくのを見て、手に持った槍の柄で家康の馬の尻を叩いて、浜松城の方に行かせ、自らは敵中に飛び込んで討ち死にしました。

また別の記事では、浜松城への退却を勧めますが、家康は「ここで討ち死にする」と聞き入れませんでした。そこで広次は、家康の馬の口取りに家康を浜松城にお連れするよう命じ、自らは「われこそは家康である」と名乗って十文字の槍を取って奮戦し、討ち死にしたといいます。享年55歳でした。

広次の忠義心の背景には、永禄6(1563)年に勃発した三河の一揆があったようです。広次は当時六栗むつぐり城(現在の愛知県幸田町)の城主でした。しかし一向宗に味方し、野場西城(現在の愛知県幸田町)に立てこもります。

その後家康方に攻め落とされ、捕らわれましたが、松平伊忠これただの「この者は御用に立つものです」との口利きにより、家康家中に戻ることを許されました。一揆で裏切った罪を(ゆる)されたうえ、その後も日常親しく召しつかってくださった、自分は何ということをしてしまったのだ、と家康の恩に報いようとの思いがあったと記されています。

家康は、広次が身代わりとなって奮戦している間に、命からがら浜松城に逃れることができました。

第18回のドラマでは、本多平八郎忠勝と叔父・忠真の別れの場面も印象的でしたね。平八郎の父・忠高は、平八郎がまだ2歳の時、天文18(1549)年の安城城攻めで戦死しました。以後、親代わりであったろう叔父の戦死は、ショックだったことでしょう。

なお、この戦いで松平軍は、城主・織田信広を人質とし、織田の人質だった家康と身柄交換がなされました。家康の人生にも大きくかかわる戦いです。

三方ヶ原の戦いでは、広次・忠真以外にも多くの家臣が戦死しました。江戸時代に幕府が編纂させた『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』などには、祖先が三方ヶ原で戦死した、あるいは忠義を尽くした、という記事が多く見えます。この戦いは家康、家臣たちの歴史の中でも大きな出来事でした。

絶体絶命のピンチでしたが、信玄の身に何かが起きたようです。どうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。