元亀3(1572)年10月3日、武田信玄の率いる軍は甲府を出発し、(とお)(とうみ)に侵入してきました。この前年12月、信玄は相模の北条と和解します。これによって後方の不安がなくなり、遠江・三河侵攻の態勢が整ったのです。

信玄は何を目指したのでしょう。出陣の意図については、上洛を考えていた、対家康あるいは対信長の紛争だったなど諸説あります。家康との断交以来「三年の鬱憤」があった、と信玄が記している手紙もあります。

畿内周辺では、信玄上洛と喧伝されていました。例えば9月5日、あざ長政は部下に、「信玄が近々出陣すると誓詞を送ってきたから、安心するように」と伝えています。信玄自身も、「本願寺顕如けんにょや朝倉義景の催促によって出馬したのだ」と述べています。

この時期は、長政・義景・大坂本願寺・延暦寺らによる、いわゆる「信長包囲網」が企てられていました。騒然とした雰囲気の中、信玄におおまち天皇の命令が3通出されています。

1通目には、「信長によって比叡山が炎上させられ、天皇が嘆いていたところ、信玄が再興のため上洛してくると聞いた、朝廷の再興のために励むように」と記されています。残りの2通は「恵林寺・長禅寺を勅願所(国家鎮護などを祈願する寺院や神社)とする」という内容でした。

恵林寺は武田氏の、長禅寺は信玄生母大井夫人の菩提寺と、いずれも武田氏との関わりが深い寺院です。その寺院を格の高い勅願所にする、というこの2通は、1通目に付属する、信玄に対する手土産のようなものでしょう。3通が実際に信玄の手もとに届いたかは不明ですが、追討の勅命といってよいでしょう。

またその少し前には、天皇は信玄に権僧正号(僧のランクの1つ。大僧正・僧正に次ぐ高官)を与えています。延暦寺座主の弟の仲介でした。これによって信玄は法性院という院号を名乗るようになりました。

では、天皇は信長・家康を敵とみなしていたのでしょうか。

必ずしもそうとは言えないと思います。この命令は、反信長勢力が朝廷を利用して行った信玄の出馬を促す工作、あるいはまだ信長の権力が安定していない中で、次に上洛してくるかもしれない強大な勢力への配慮の面もあるでしょう。

こうした配慮はほかでも見られます。元亀元(1570)年9月から12月にかけて、延暦寺周辺で信長軍と義景・長政らの軍とが戦った志賀の陣がありました。この時、戦場のほど近くにあった賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、この争いへの対応に要した会計を記した帳簿が残されています。

その内容を見ますと、神社は、将軍足利義昭にも、朝倉・浅井にも、三好長逸らにも、あるいは信長やその家臣にも、各陣営にまめに挨拶や贈り物をしています。戦況がどうなろうとも、神社が安全になるように努力していたのでしょう。

贈答の中でもちょっと気になるものに、12月7日に義景の「若子」に、将軍から拝領した太刀を送っている記事があります。義景の愛息・愛王丸は、誕生日はわかりませんが、この年に生まれました。その誕生のお祝いでしょうか。

子どもの誕生祝と推測される贈り物は、信長方の長岡藤孝(細川幽斎)にも届けられています。有力者の動向に細かく気を配っていたようです。

天皇・朝廷をはじめ京都の人々、遠江の人々など当時の人々が、戦の成り行きを見、状況の変化に敏感に反応して、生き残りをはかっていた様子がうかがわれます。家康としても家中や遠江の民などの目を気にせざるをえません。それも出陣を決断した要素の1つでしょう。

さて、家康大敗の報は、あっという間に義景・長政・本願寺顕如などのもとに届き、反信長勢力は勢いづいたようです。さあどうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。