元亀元(1570)年11月(現在の暦では12月)、源三郎勝俊が甲斐から帰ってきたと伝えられます。江戸時代の系図には、家康の「奇謀」によって逃れた(『寛永諸家系図伝』)、また大雪の中を帰ってきたため、両足の指が凍傷になったというエピソードが見えます(『寛政重修諸家譜』)。家康は源三郎の忠節に対して、一文字の刀と当麻の脇差を与えました。

源三郎は、於大の方と久松長家の間の子、つまり家康の異父弟にあたります。家康の兄弟として松平姓を与えられていました。彼はなぜ武田信玄のもとで人質となっていたのでしょうか。

実は源三郎がいつ甲斐に行ったのか、後世の記録ではまちまちで、はっきりしません。おおよそ、当初は今川氏真のもとに人質としており、のち武田に赴いたとされています。

人質や縁談は、多くは同盟の成立に際して、友好の証として出されます。家康と信玄の間の同盟は、永禄11(1568)年ごろ結ばれました。おそらくはこの同盟締結に伴って、源三郎は甲斐に赴いたのでしょう。

なお武田からは人質が出されておらず、対等な同盟ではなかった、という指摘もあります。家康と信玄の同盟に先立って、織田信長と信玄が同盟を結んでおり、家康の同盟も信長の仲介があったようです。

永禄11(1568)年12月、家康と信玄は示し合わせて、今川氏真の支配する駿河・(とお)(とうみ)に攻めこみました。両者は、今川滅亡後の今川領の分割についても決めていたようですが、あいまいな点もあったようです。第16回の放送で「武田は駿河、徳川は遠江と」決めたではないかと、家康が訴えていましたね。

ともあれ家康と信玄に両方から攻められた今川は滅亡します。家康は遠江に入り、支配を進めていきました。このころ、第6回放送「続・瀬名奪還作戦」で登場した鵜殿長照の子・氏長も家康の家臣となります。

ところで、第12回放送「氏真」で、家康は懸川城の今川氏真が北条氏康のもとに行くことを許し、氏康と同盟を結びました。これが信玄の怒りを招きました。氏康・氏真と和睦しないと誓ったではないか、との怒りを織田信長に伝えています。どうも信玄は、家康を信長の部下とみなしていたようです。

家康と信玄の仲は悪化していきます。源三郎が脱出する少し前10月に、家康は越後の上杉謙信と同盟を結び、起請文を送っています。そこでは、自らが信玄と断交すること、また信長の長男・信忠と信玄の娘・松姫の婚儀に反対する、と述べています。

この縁談は信長と武田の同盟の証でした。その同盟も切らせる、ということでしょう。なお2人の婚儀は元亀3(1572)年初頭に実現されようとしますが、最終的には破談となりました。

さらに家康が源三郎を脱出させたことは、信玄との断交の意思表示になります。一触即発の状況です。

源三郎は、のちに駿河国久能城(現在の静岡県静岡市。久能山東照宮となる)を与えられますが、35歳の若さで亡くなりました。家康としても、弟の苦労に「すまない」という痛切な思いがあったのではないでしょうか。子孫は、(しも)(うさ)多胡藩(現在の千葉県香取郡多古町)1万2千石の藩主として明治維新まで続きました。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。