元亀元(1570)年、姉川の戦いから帰った家康は、岡崎から(ひく)()(現在の静岡県浜松市)に本拠を移します。当初予定されていた見付城(現在の静岡県磐田市)ではなく浜松としたのは、織田信長の意向があったようです。岡崎城には城代として長男・竹千代(信康)が残りました。

これより2年前の永禄10(1568)年5月、竹千代は信長の娘・五徳と結婚しました。信長と家康の清須同盟の証です。永禄6(1564)年の婚約時には2人とも数え年5歳の幼さでした。

元亀2(1571)年、13歳になった竹千代は元服し、三郎信康と名乗ることになります。信長の「信」と家康の「康」をもらった、両家の友好を示す名前です。ただし「信」を上の字に用いており、信長が上位者として偏諱を与えたと推測されます(#2 「わが子も同様」松平次郎三郎元信の登場)。こうした親たちの関係が、信康・五徳夫妻の関係にも影響するかもしれませんね。

信康の母、有村架純さん演じる瀬名は、竹千代(信康)とともに岡崎に残りました。今回は瀬名に注目したいと思います。

女性の経歴ははっきりしないことが多く、瀬名も生年や本当の名前は残念ながらわかっていません。

「瀬名」という名前は、「どうする家康」をはじめドラマや小説で古くから用いられています。早くは江戸時代成立の『武徳編年集成』に「関口あるいは瀬名とも称す」と記されていまして、名前とされたようです。

ただ、この記述は名前ではなく、父・関口氏純の縁によるものと考えられます。氏純はもともと瀬名家の出身で、関口家に養子に入り家を継ぎました。この家名に基づき「関口」「瀬名」と記されたのでしょう。

また以前は瀬名の母(氏純の妻。ドラマでは「巴」)は今川義元の姉妹で、瀬名は義元の姪に当たる、とされていました。しかし近年では、氏純自身ではなく、氏純の兄・瀬名貞綱の妻が義元の姉妹だったと考えられています。

姪ではないとしても、瀬名家・関口家は今川の一門衆という有力な家柄でした。その娘と結婚することによって、家康も一門衆に準じる立場になりました。今川を支えるべき人物として期待されていたのです。

結婚も、義元の口利きによるものでしょう。永禄2(1560)年に長男・竹千代(信康)が、翌年に長女・亀姫が誕生します。

しかし義元は桶狭間の戦いで亡くなり、やがて家康は今川から離反します。駿府の瀬名は、第6回放送「続・瀬名奪還作戦」で、鵜殿兄弟との人質交換により家康のもとに来ました(この時人質になっていたのは竹千代だけで、瀬名と亀姫はもっと早くに岡崎に来たという説もあります)。

その後、瀬名は岡崎城外に住み、築山殿と呼ばれるようになりました。築山殿の場所は諸説ありますが、築山の設けられた風流な庭がある屋敷だったのでしょう。

瀬名はなぜ城内に住まなかったのでしょうか。浅井長政の妻・お市もそうですが、瀬名も今川と婚家をつなぐ役割を担っていました。その今川が敵となったことで、立場が弱くなり、表に出るのを(はばか)ったのでしょうか。現在の同盟相手で勢いのある信長の娘・五徳とは、対照的な立場にあります。

岡崎と引間(浜松)と別れ別れに住むことになった二人。距離的にはさほど遠くはありませんが、これからどうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。