越前朝倉義景を攻めている最中の織田・徳川軍の背後から、浅井長政が襲ってきました。長政は織田信長の妹・お市の夫、つまり義理の弟です。にもかかわらずなぜ裏切ったのでしょうか。
まず今回の出兵の経過を見てみましょう。
永禄13(1570/元亀元)年4月20日、信長・家康たちの軍は若狭の武藤友益征伐のため、として京都を出発しました。
この出陣の背景には若狭国をめぐる問題があったようです。若狭守護・武田元明は、永禄11(1568)年、義景の若狭侵攻により、越前に連れていかれました。そのため若狭は武田方と朝倉方に分裂しました。
元明の母は12代将軍・足利義晴の娘。つまり15代将軍・足利義昭と元明は、いとこ同士になります。そうした関係から、義昭が元明のために出陣を命じたのではないかといいます。
またこの年の正月、信長は家康を含め各地の勢力に、2月中旬までに上洛するよう命令を出しました。義景がこの命令に従わなかったため、との説もあります。ただし現在知られている同時代の史料では義景は命令の対象となっておらず、期間も短いことから、関連性は不明です。
信長軍は若狭を経て、4月26日には越前金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)を開城させ、さらに進攻しようとします。ところが28日、長政の裏切りの報が届きました。当初信長は「長政は縁者である上に、近江国北部を与えているのに、不満はないだろう」と、虚報ではないかと疑ったといいます。
また、この時お市が小豆を袋に入れて両端を縛ったものを陣中に届けて、信長に袋のネズミになっていること、つまり背後の長政の裏切りを知らせた、という有名なエピソードが、『朝倉家記』という江戸時代の軍記物に記されています。創作と思われますが、家康たちの窮状を表現していますね。
さて、浅井氏は近江国北部の小谷城(現在の滋賀県長浜市)を本拠とする国衆です。もともとは近江守護の京極の被官でした。長政の父の時代には、近江南部の戦国大名・六角に従属しましたが、この時期には北の朝倉に従っていたようです。
長政とお市が結婚した時期は、諸説ありますが、永禄10(1567)年末ごろと思われます。このころ信長は美濃の斎藤を滅ぼし、本拠を岐阜に移しました。美濃と近江、隣国の勢力と婚姻を通して友好関係を結ぼうとしたのでしょう(お市は、信長の実の妹だったとも、近い親戚で養妹として嫁いだともいわれます)。足利義昭と信長の上洛にも協力しています。
浅井と朝倉の関係を疑問視する説もあります。しかし近年やはり長政は、信長にも義景にも属していたと指摘されています。義景も義昭を支援しており、もともとは信長との間に対立関係はありませんでした。
ところが、その信長と義景が戦うこととなったのです。長政としてもさぞや困惑したことでしょう。
信長の天下を静めるという考えについていけなかったのでは、と推測する説もあります。
さらに、信長は長政を実質的に家来とみなしていたようです。長政の裏切りについて「近年特に家来となり、親しく隔てなく思っていたところ」と述べている手紙があります。長政には、こうした家来であるかのような扱いへの不満もあったかもしれません。
かくして長政は義景を選び、“兄上を裏切り”ました。
なお、北川景子さん演じるお市の傍らには、赤ちゃんの茶々がいました。お市と長政の間には3人の娘がいます。のちのち家康とも大きく関わってくる女性たちです。
前方に朝倉、後方から浅井、挟まれた家康はどうするのでしょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。