永禄11(1568)年9月、足利義昭は織田信長の支援を受けて上洛し、翌10月に室町幕府15代将軍に就任しました。この上洛には家康自身は同行せず、一族の松平信一を援軍として派遣しています。

家康の上洛は、翌々年永禄13(1570)年2月です。第13回のドラマでは、初めての京の雰囲気、さまざまな人との対面にとまどい、疲れきっていましたね。

義昭とも初めて対面しましたが、なぜか家康のことを「松平」と繰り返し呼んでいました。

第11回放送「信玄との密約」で描かれたように、家康は永禄9年に従五位下三河守に叙任され、名字を「徳川」に改めました(#12 徳川三河守家康に「源氏の末流じゃ!」)。天皇の許可を得た任官です。

では何が気に入らなかったのでしょうか。

実は、室町幕府の下では、武士が朝廷から官職や位階をもらう時には、将軍を通す必要がありました。将軍に申請して、将軍が天皇に推挙し、叙位任官の決定も将軍から伝えられる形だったのです。

しかし家康は、関白・近衛前久さきひさを通して従五位下三河守を得ました。13代将軍・義輝が横死した後、足利義栄と義昭が後継者争いをしている状況でしたので、家康としてはやむを得ないことともいえます。

「官位を買った」とも非難されていましたが、こうした口利きに礼物が伴うのも常の事でしょう。

加えて仲介が前久だったことも影響しているかもしれません。2人はいとこ同士ですが、ざんげんもあり、折合いが悪かったようです。義昭の上洛の翌月11月には、前久は義昭の怒りを受けて京都を出奔してしまいました。

さらに前久の京の屋敷は壊されて、将軍山城の材木にされています。前久がようやく京都に戻ってくるのは天正3(1575)年のことになります。

とにかく義昭は、自分の許可を得ていない家康の叙任を認めなかったようです。家康のことを何年もの間「徳川三河守」とは呼ばず、「松平蔵人」と呼び続けていました。

ちょっと大人げないようですが、義昭にとってはメンツにかかわる大問題です。

さらに、実は家康は、前年永禄12(1569)年秋ごろ左京大夫に昇進しています。昇進の日付は、少しさかのぼった永禄11年正月とした書類が後世作成されています。これは先代の後奈良天皇の追善仏事のために、家康が朝廷に2万疋(現代の2千万円ほど?)もの大金を献上したことに対する褒美の形でした。

この「左京大夫」も義昭は認めていません。

家康が三河守・左京大夫として実際に仕事をするわけではありません。たかが呼び名とお思いでしょうか。この時期の家康の呼び名をめぐるエピソードをもう2つご紹介します。

まず甲斐の武田信玄です。遠江国をめぐって、このところややきな臭い状況ですね。信玄は家康に手紙を書く時は、きちんと「徳川殿」と記しています。しかしほかの人物への手紙で家康に触れる時には「松平蔵人」と書いていました。やはり家康のことを、朝廷から官位を授かるような格の人物とは認めてはいないようです。

もう一つは家康自身です。家康は左京大夫に昇進しても、「左京大夫」とは名乗らず、信長も家康を「三河守」と呼んでいます。その裏には昇進をめぐる信長との行き違いもあったようです。

人間関係によって、いろいろと思惑のからむ呼び方の変化にもご注目ください。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。