桶狭間の戦いから9年、永禄12(1569)年5月に今川氏真は懸川城を明け渡します。駿河・遠江の名門今川は領国を失うことになりました。第12回のドラマでは、家康が幼いころから兄と慕った氏真との関係にも一つの区切りがついたようです。

落城の時、氏真の傍らには妻の早川殿(ドラマでは糸)がいました。関東の強豪・北条氏康の姫です。また母は今川氏親(義元の父)と寿桂尼の娘、つまり氏真とはいとこ同士になります。

2人は天文23(1554)年7月ごろに結婚しました。氏真は数え年17歳、糸は8歳くらいでした。まだ幼い姫ですが、駿河には祖母・寿桂尼もいましたので、親しみもあったかもしれません。糸が駿河に赴く行列は、沿道で大勢が見物していたそうです。華やかな行列に、人々は両国のつながりを感じたことでしょう。

両国のつながり、といいましたが、この結婚は義元と甲斐の武田信玄、相模の北条氏康の間で結ばれた「駿甲相三国同盟」の一環です。今川と隣国の北条、武田は長く争ったり、連携したり、駆け引きを続けていました。その三家がお互いに姻戚関係を結び、友好の証としたのです。

まず天文21(1552)年、義元の娘が武田信玄の嫡男・義信の妻となり、義元と信玄は起請文を交わしました。天文23年には、氏真(今川)と糸(北条)のほか、糸の兄・北条氏政も武田信玄の娘と結婚しました。以後三家は軍事・外交で連携しています。

同盟関係は桶狭間の戦いの後にも続いています。ドラマでも回想されていましたが、桶狭間の戦いののち、織田信長と相対する家康に、氏真はなかなか援軍を派遣しませんでした(第3回放送「三河平定戦」)。これは東の北条氏康に援軍を送っていて、余力がなかったようです。しかしその結果、家康は今川方を離れ、織田方にくみすることとなりました。

また将軍足利義輝が、氏真と家康の和睦の仲介をせよと信玄と氏康に求めたのも、三国の関係によるものです(#11 13代将軍足利義輝暗殺「将軍さま御討死」)。

しかしこの時期、信玄は今川に攻め寄せています。どのような背景があったのでしょうか。

信玄も当初は氏真を援助していましたが、今川の動揺が続く中で関係は揺らいでいきます。永禄8(1565)年、信長と信玄は同盟を結びました。この同盟には武田家中でも賛否があったようです。義元の娘を妻としていた親今川派の嫡男・義信は、謀反の(とが)で廃嫡されました。

不信感の募った氏真は、信玄の仇敵・上杉謙信との交渉をもくろみます。しかしこの交渉は信玄にばれてしまったようです。今川と武田の間の溝は深まっていきます。

永禄11(1568)年、ついに信玄は家康と同盟を結び、駿河と遠江から氏真に襲いかかりました。

信玄の動きに、糸の父・氏康は、この間仲介をしていた面子をつぶされたと激怒します。ある書状では長年の同盟を破り侵攻したこと、それにより氏真が懸川城に退去する際、娘(糸)が乗物にも乗れずに退避する羽目に陥った恥辱はそそぎがたいと述べています。

氏康軍の攻撃を受けて信玄は一時甲斐に撤退しました。その間に家康は、氏真・氏康と和睦を結び、懸川城は開城、遠江を平定することとなりました。しかしこの行動に、今度は信玄が不快感を示します。

戦国の世、隣国同士のいりくんだ関係が事態の推移に大きく影響しています。綱渡りの駆け引きが求められる時代でした。

さて懸川城を出た氏真は、ドラマでの言葉通り、北条に身を寄せます。その後もさまざまな出来事を乗り越え、氏真と糸は、慶長18(1613)年に糸が亡くなるまで生涯をともにしました。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。