永禄10(1567)年正月、家康は天皇に願って正式に官位を授けられ、従五位下徳川三河守藤原家康となりました(辞令は永禄9年12月29日付です)。

三河守は家康の勢力圏である三河国の県知事のような地位です。三河の平定を遂げつつある家康が、自分は三河の支配者だ、と主張するには良い官ですね。

「従五位下」は朝廷の官僚のランクの一つです。官僚としては下の上くらい、この時期の位階を持つ武家としては平均的なランクでしょう。

この任官が許可されるまでには少しトラブルがありました。武家が任官する場合、通常は将軍の推挙を受けます。ところがこの時は13代将軍足利義輝が亡くなった後で、将軍が不在でした。そこで当時の関白・近衛前久を通して申請したところ、正親町天皇が難色を示したのです。

実は将軍の推薦をうけて任官した武士は、朝廷の官僚組織の定員外で、名前だけとなります。しかし前久の推薦で任官すると官僚組織の中に入ってきます。由緒のない人物が、公家の定員内の官を得ることが天皇は気になったのでしょう。

そこで工夫がなされました。由緒を探したのです。家康は、源氏の名門・新田の一流、世良田の子孫・徳川だと名乗っていました。これは祖父・清康も称した家柄です。ところがそれでは任官できません。

そこで前久たちはある旧記からある系図を“発見”します。その系図によると、家康の家柄は源氏であるが、その中に藤原氏になったものがいる、として由緒があるところに系図をつなげていきます。そうして由緒を形成し、また藤原氏のトップである前久が推薦しやすくしたのでしょう。

ドラマでも「源氏の末流じゃ!」と盛り上がりながら、「藤原家康」の名で叙任されていましたね。

はて徳川ではないのか、源氏・藤原氏はどう関係してくるのか、とお思いではないでしょうか。当時の人には氏(姓)と名字がありました。家康の場合、氏が源あるいは藤原、名字が松平・徳川になります。

氏とは父方の血縁、家系を示すものです。源・平・藤原などが有名です。ところが世代を重ねると、子孫が増えていきます。源さんといってもどんどん多くなって、誰だかわからなくなってしまいます。そこで便宜的に区別をつけるようになりました。

現在でも親戚のことを「岩手のおじさん」とか「横浜のおばあさん」など、住んでいるところや職業をつけて呼んだりしないでしょうか。そうした呼び名(「岩手」「横浜」)がだんだん固有名詞になっていき、名字になります。正式な書類では氏を名乗りますが、ふだんは名字で呼ばれます。つまり源氏という氏の中の徳川さん、ということになるわけです。ちょっとややこしいですね。

氏はその人の血筋を表しますので、本来は生涯変わりません。結婚をしても男女とも変わることはありませんでした(名字は夫婦で一緒になることもあります。別姓同名字です)。

ところが、この時期の武士たちは、出自がはっきりしない場合が多く、氏も自称で、状況によって変えることもありました。家康は当初は源氏を称していましたが、今回の任官では、先のようないきさつによって藤原氏に改めています。

もう一つ、ドラマで「難題」とされた礼金がありました。武家が朝廷で叙任されるためには、礼金が必要になります。家康は仲介者の前久にまず100貫(現代の1千万円くらい?)といいつつ20貫払います。

その後も毎年300貫と馬(いっ)(ぴき)の礼を、天皇に()(ほう)(はい)という正月の年中行事の費用を毎年払うと約束しました。しかしこの約束は、どちらもあまり果たされなかったようです。

ともあれ、ついに「徳川家康」の誕生です。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。