第10回のドラマは家康の側室探しでひと騒動でした。於大の方が叱咤していたように、お家の存続、また他家との婚姻政策が重視される時代、側室選びも重要な政治行為でした。
ドラマでは、於大の方と瀬名が、良い側室を、と音頭を取って探していましたね。側室やその子も含め、武家の家内の管理は正室の役割でしたので、実際に側室を選ぶ時にこのようなこともあったかもしれません。
こうして次女・督姫(「おふう」とも)が誕生しました(天正3〈1575〉年誕生とする説も)。赤ちゃんのおふうも、やがて徳川家の外交戦略の一角を担うことになります。その母は西郡局(ドラマでは「お葉」。法名は蓮葉院)と呼ばれています。父は諸説ありますが、江戸時代の系図では、先に上ノ郷城(西郡城)で討死した鵜殿長照の弟の養女、つまり義理の姪とされています。
一方、織田信長のもとには、将軍が殺されたとの報が届きました。これは永禄8(1565)年5月19日、室町幕府13代将軍足利義輝が殺害された事件です。義輝は、大河ドラマ「麒麟がくる」(2020年)で向井理さんが演じておられました。上品な姿をご記憶の方もおられるでしょうか。
京都の将軍といいますと、三河の家康とはあまり縁がなさそうな気もします。しかし、実は義輝と家康との関係も見えます。
この時期、日本中で戦争が起きていました。義輝は、こうした各地の大名間の争いの調停を熱心に行っていました。義輝が調停を行ったのは、天下が平穏になることを望んだ、将軍と大名との関係を再構築しようとした、あるいは調停に伴う礼銭の献上が狙いだったなどの動機が推測されています。
義輝は、家康と今川氏真の争いにも和睦せよと命令を出しました。この働きかけは、おそらく氏真の願いで、桶狭間の乱以前から駿河に滞在している公家・三条西実澄が仲介しました。義元の時代、駿府に大勢の公家が来訪していました。その人脈が生かされたといえましょう。
しかも義輝は氏真・家康だけでなく、隣国の北条氏康・武田信玄にも和睦に尽力するようにと命じています。これを受けて氏康が、家康のおじ・水野信元や家臣・酒井忠次に出した手紙の写しが伝わっています。
氏康は信元に「近年家康が氏真に逆らっているのは嘆かわしい、氏真から自分も三河への出陣を求められているが、詮無いことではないか、去年ある筋から『駿三和談』を念願しているとの話があった、あなたから家康に意見して和平がなるように努めるように」と述べています。
しかし結果としては、この調停はうまくいかなかったようですね。
また義輝の要望に応じて飛脚用の名馬を献上し、お礼の手紙を貰ったこともあります。
さてその義輝が暗殺されたのち、次の将軍をめぐる争いが発生します。
まず義輝の同母弟で興福寺一乗院門跡の覚慶(のちの15代将軍義昭)が名乗りを上げました。義昭は家康にも助力を求め、家康は了解したとの返事を出しています。義昭は永禄9(1566)年4月、代々の将軍が最初に任じられる従五位下左馬頭の官位を得ました。
他方でクーデターの主導者・三好義継らは、阿波にいた足利義栄(「麒麟がくる」では一ノ瀬颯さん)を擁立しました。義輝の従兄弟です。義栄は永禄10(1567)年正月に従五位下左馬頭となり、翌年2月征夷大将軍になりました。しかしなかなか京には入れません。摂津国富田(現在の大阪府高槻市)から京をうかがっています。
京都の政局も大きく動きます。義昭に加勢するのか、氏真と戦うのか、どうするのでしょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。