家康の周辺では一揆との戦いが続いていました。

一揆に参加した家康家臣に、ドラマでは木村昴さんが演じている渡辺半蔵守綱がいます。槍の名手で「槍の半蔵」と呼ばれた勇将です。この守綱の思い出話を息子が書き留めた「渡辺忠右衛門覚書」という記録があり、一揆の時のエピソードも記されています。覚書からいくつか守綱の証言を見てみましょう。

守綱と一族は、有力寺院の一つ、針崎(しょう)(まん)()に立てこもっていました。

ある日、今日は家康が攻めてこないだろうと、一揆勢は大久保一族の(かみ)()()砦を攻めました。守綱も先頭に立って戦います。そこに敵方から「相手の大久保忠俊は守綱の伯母の夫ではないか、縁者同士で戦うのは甲斐がない、退け」と声がかかりました。守綱は「たしかに」と退こうとしたのですが、射られて負傷してしまいます。しかしその後も奮戦しました。

別の日、家康は勝鬘寺を攻めました。迎え撃つ守綱が敵の首を取ろうとしますと、そこに父・高綱が駆けつけ「殿さまが駆けつけてこられたぞ、退け」とせかし、退却しました。しかし高綱は家康軍の矢に当たり、ついに戦死してしまいました。

こうした記事からは、前線に立って戦う家康の姿や、家康軍と一揆勢が知人縁者同士での戦いとなっていた様子がうかがわれます。覚書の記述には、江戸幕府の初代将軍となった家康への忠義を示す意図もあるでしょうが、実際家臣たちには複雑な気持ちがあったことでしょう。ドラマでも、分断された家康や家臣たちの沈痛な様子が印象に残りましたね。

一進一退の攻防が続きますが、永禄7(1564)年春に一揆との和睦が成立しました。発端と同様、戦いの経過、和睦に至る過程も史料上はっきりしていませんが、家康の伯父・水野信元の加勢と仲介があったようです。

和睦にあたって一揆側は、寺の不入権は「前々のごとく」(従来通り)とすること、一揆に参加した者の助命を願い、認められました。どうもこの一揆は、家康を打倒しての勢力の拡大ではなく、「不入権」を侵されたことに対して、従来通りの寺の特権の維持を目的としていたようです。双方で和睦の条件を違えないことを神に誓う起請文が交わされました。

この和睦から半年ほどの間に、吉良義昭・荒川義広ら家康に対抗していた勢力も三河国を追い出されました。

ところがこうして西三河が平穏に向かいますと、家康は和睦の条件をひるがえしてしまいます。寺院に対して改宗せよと要求したのです。

当然僧たちは、「“前々のごとく”にしてくださると和睦の起請文に書いてくださったではないか」と訴え、家康が「前々のごとくというならば、前々は野っぱらだったのだから野っぱらにせよ」と言い放ったというエピソードが『三河物語』に見えます。

結局、僧たちは家康の領内から追放され、寺院は壊されてしまいました。(ほん)(しょう)()の空誓も落ちのびていきます。この後、長く一向宗本願寺派は禁止されました。約20年後の天正13(1585)年にようやく僧たちは帰ってくることを許され、本證寺なども再建されました。

一揆に味方した家康の家臣たちの中にも、三河を出て牢人となったものがいます。渡辺守綱や夏目広次は再出仕を許されましたが、本多正信は三河を出奔しました。

翌年、家臣団を3つのグループにわけた軍備の編成がなされました。三河の一揆は、家康家中の指揮系統を整備する上でも大きな出来事でした。 

このようにして家康はなんとかピンチを乗り越えました。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。